2019.12.29  過ぎ行く一年の恵みに感謝して! ――詩篇103篇/138篇7――

ダビデは詩篇の中で、いつも主の恵みを振り返って神様に感謝している。

それは神への感謝がいかに重大であるかを読者である私たちに教えてくれている。

  詩篇103:1→「わが魂よ。主を褒めたたえよ。私のうちにある全てのものよ。聖なる御名を褒めたたえよ。

  わが魂よ。主を褒めたたえよ。主の良くして下さったことを何一つ忘れるな…」。

  詩篇138:1→「私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたを褒め歌います。

  私はあなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたの恵みとまことを、あなたの御名に感謝します。」

 

――なぜ感謝する必要があるのか?――

 私たちは“忘れっぽい者”であるから 

 過去に色々と主からいただいた恵みを私たちはすぐに忘れてしまい、今の課題に右往左往してしまう。

 「のど元過ぎれば暑さ忘れる」である。

 自分の歩いて来た道を振り返ることで、“信仰”を深めることができたから

 彼の人生は“楽しい事”“幸いと思えること”以上に“辛く悲しい事”が沢山あった。失敗もしたが、

 それらを後からよく吟味して考えて見ると、全てのことが恵みに変えられたということが判ったのだ。

 ここから私たちは教えられる。主の恵みを振り返ることで、信仰生活を高めていくことができるのだという事を。ダビデはそのことをよく知っていた。

 2019年最後の聖日礼拝。この一年は皆さんにとってどんな一年だっただろうか?

   ダビデはここで思い出している。何を?…神の恵みと祝福とを。

 「わが魂よ。主を褒めたたえよ。主の良くして下さったことを何一つ忘れるな。…」 詩103:

 彼は具体的に幾つか項目に分けながらこう感謝している。3→「咎を赦された」こと、  

彼は数々の失敗をした。主と身近な人を傷つけたこともあった。人を死に追いやったことさえも。

 だが彼が悔い改めた時、神様は完全に赦して下さった…、そう感謝しているのである。

 また、3→「病を癒された」ある。恐らくダビデはこの頃、恐ろしい病に罹ったことがあったのだろう。しかし今この時点では癒されている、そのことを感謝しているのだ。…私たちもまた今年、風邪もひき、病気やケガもした。…でも、主が癒して下さったことを感謝したい。

 また、4→「穴から救い出された事」とある。「穴」とは大きな試練や問題や悩みを表す。まるで墓穴に片足入れたような苦悩だったのだろう。

だがそこからも主によって救い出されたと彼は感謝しているのである。

 また8→「恵み豊かであった」14→「心に留めて下さった」と感謝している。

 「ダメだった。自分はそういうには遅すぎた。もっと若い頃、教会に来るべきだった。青春時代、聖書に触れるべきだった。もう遅い、自分はもう古びてしまった。また自分には欠けが多すぎる。ダメだ…」そんなこと言わないでほしい。そんなことはないのだから。神の前では絶対に…。

 

――欠けさえも用いられる神様――

 ▼聖書の神様は人の欠けさえ用いるお方なのだということを覚えたい。

 「ひび割れた壺の恵み」という話がある。

 インドに一人の“水汲み人”がいた。この“水汲み人”はいつも仕事で“二つの大きな壺”を使っていました。長い棒を首にかけ、

両端に一つづつ壺を吊り下げて仕事をしていた。

 …ところで一つの壺は一か所大きくヒビ割れした所があった。もう一つの壺はヒビはなかった。彼は両方共に水をいっぱいに汲んでご主人のもとに届けるのだが、ヒビ割れた方の壺は家に着く頃には壺の中には半分しか水が残っていないのだ…。二年間、この水汲み人は同じことを繰り返しました。

…ヒビ割れた壺の方は、自分が充分でないことを恥じ「半分しか運ぶことができない…」、といつも惨めに思っていた。

ある日、そのヒビ割れた壺がご主人に言った。

 「ご主人様、私は自分を恥じています。私は歳を取り、もうヒビ割れていて、水を半分くらいしか家に届けられません。本当に申し訳ありません。私には欠けがあります。ヒビ割れていて、水がそのヒビから漏れていってしまうのです。…あなたが一生懸命運んでおられるというのに、私のせいで充分な仕事をすることができません。」…すると水汲み人は笑顔で答えた。「さあ、今日家に帰るとき、一緒に“道端”を見てみようじゃないか!」。その日の帰り道、ヒビ割れた壺は辺りを見回した。「さあよく見てご覧、お前の側にだけ、花が咲いているだろう?反対側には咲いてないんだよ。…それはね、私がお前のヒビ割れを知っていて、それを用いたんだ。お前が通る側の道に種を蒔いておいて、毎日ここを通る時、お前の壺から水をやっていたのだ。…もう二年間、私はご主人にこの美しい花を摘んで、きれいに飾って差し上げているのだよ。おまえのヒビがなかったら、ご主人の家は花がない家になっていたんだよ。」

  そう、聖書の神は、私たちの欠けを修復することもおできになる。だが、その“欠け”を用いて豊かに富ませることができる神様なのである。

  私たちは何とか自分の欠点を改善しようと努力するが、私たちの“造り主”である神は、私たちの“欠点”をも用いることのできる神様なのだ。

  どうか、この神を知ってほしい!

 ▼さてあなたは今年どんなことを感謝しただろうか。年の終わりに主をほめたたえよう

 「ことの終わりは、その始まりにまさる…」 伝道者の書7:と旧約聖書にある。私たちは新年「一月元旦こそ一番大切、今年は気を引き締めて行くぞー」と考えがちだが、聖書はむしろ逆のことを教えているようである。読み替えれば、「年の終わりは年の始まる日に勝る」となる。今日から今年最後の三日間、大切に生きたいと思う。主のみ前にへりくだり、一年間主が自分に、教会にして下さったことを思い出して感謝したいと思う。

 

――数えて見よ主の恵み――

 ▼聖歌642番「望みが消えゆくまでに」(原題は「あなたの祝福を数えなさい」)という賛美歌がある。

「望みも消えゆくまでに、世の嵐に悩む時、数えて見よ主の恵み、汝が心は安きを得ん。/主の給し十字架を担いきれず沈む時、

数えて見よ主の恵み、つぶやきなどいかであらん。/世の楽しみ・富・知識、汝がこころを誘う時、数えて見よ主の恵み、あまつ国の幸に酔わん。

/数えよ主の恵み、数えよ主の恵み、数えよ、一つづつ、数えて見よ主の恵み」

 ジョンソン・オートマンという牧師が作詞した賛美歌である。大変ご苦労された牧師だったようだが、歌の原詩はこうだ。

「あなたの人生に、もの凄い嵐が吹き荒れる時、あなたは全てが失われたと思い、落胆するでしょう。けれど、気を取り直して、神が与えて下さった恵みを一つ一つ数えてごらんなさい。そうすれば、あなたにこれまでどれほど沢山の恵みがあったかに驚くでしょう。だから、気落ちしないで下さい。主の側につく者に主は良くして下さるから…。主の恵みの一つ一つを数えてなさい。主の恵みを一つ一つ数えて主が成して下さった事に心の目を留めなさい。」

 嬉しかったこと、感謝だったことをピックアップしてみよう。逆に辛かったことや悲しかったこと、苦しかったことも思い出そう。むしろ、マイナスと思えた経験の中に主の大きな恵みが隠されているのだ。

  もう一つ覚えるべきことがある。私たちもまたダビデのように神に口に出して感謝することがとても大切である。考えてみよう。私たちが幸せになったり、不幸せになったりする原因のほとんどは言葉である。“悪い言葉”を聞けば失望するし苦しむ。そして“良い言葉”を聞くと、元気になり温かい気持ちになれる!  私たちも言葉に出して、「神様ありがとうございます」と感謝すれば神様は喜んで下さるのである。

   私は心を尽くしてあなたに感謝します。天使たちの前であなたを褒め歌います。

   私はあなたの聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたの恵みとまことを、あなたの御名に感謝します。 詩138:

  …低い者を顧みて(面倒を見て)下さいます。…私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かして下さいます。 詩138:6   

   主は私にかかわる全てのことを、成し遂げて下さいます。 詩138:

  御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした。 詩9:10

 「~でした。」とあり、これは過去形である。それで、御名を知っている者は、これからも「神に頼ります。」これは未来形が使われている。 

 神に感謝することは、あなたの将来を明るくしてくれることが分かる。過去の感謝が未来の安心を引き寄せるのだ

  キリストの中に根差し、また建てられ、また教えられたとおり信仰を堅くし、溢れるばかり感謝しなさい コロサイ2: 

パウロはそう教えている。何度もだ。

   キリストの平和が、あなた方の心を支配するようにしなさい。その為にこそあなた方も召されて一体となったのです。

また感謝の心を持つ人になりなさい。…感謝に溢れて心から神に向かって歌いなさい。…主によって父なる神に感謝しなさい。 コロサイ3:15~17

 私たちもダビデのように伝わる感謝をしよう。一人で時間を取ろう。今年一年の感謝を具体的に思い出そう。

ノートに書き出し、祈りの中で、賛美の中で感謝を捧げよう。どうそ主にあって良い年をお迎え下さい。

 

 

 

  

 

 

2019.12.1  力と希望は祈りから! ――マルコ9:14~37――

 

. どうして奇蹟は起こらなかった?  マルコ9:14~19

 山上の変貌後、ペテロとヤコブとヨハネを伴われてイエスが山を降りて来られると、

 麓では大勢の人が押しかけ、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。

 群衆の中にいた男がイエス様に「自分の息子の病気を癒して欲しい。」と願い出たのだ。息子とは “口をきけなくする霊”につかれた男の子で、激しい“てんかん発作”の症状を持っていた。…あいにく、この時イエス様は、三人の弟子、ペテロ、ヤコブ、ヨハネと一緒に山に登っておられて不在だったので、男は麓に残っていたイエスの他の弟子たちに癒しを頼んだのだが、いずれも失敗に終わっていたのである。

 彼らは弟子たちを責め、師であるイエスを侮辱し、議論は白熱していった。

そんな中イエス様が山を降りて来られた。病気の男の子は放置されたまま議論は白熱していた。

この時すでに弟子たちは病気を治したり、悪霊を追い出したりする権威が与えられていて←マタイ101

実際弟子たちは病人や悪霊に憑かれた人たちを癒す実績を誇っていたのである←マタイ6713

それなのに今回はなぜか失敗に終わってしまった。それゆえ律法学者たちに激しく責められ、群衆からもブーイングを受けていたに違いない。

弟子たちは挫折と屈辱とを味わい、心には恐れが生れていた。

 ――なぜ癒されなかった?――

 「ああ、不信仰な世(人々)だ。いつまであなた方といっしょにいなければならないのでしょう。

いつまであなた方にがまんしていなければならないのでしょう。」←マルコ919

 なかなか信仰というものは植物のようには育たないものだなと思わされる。

 私たちもしばしばイエス様にため息をつかせてしまっているのではないだろうか?

 〈なぜ奇蹟は起こらない?〉 彼らはこのことを通してあることを学習することができたのだ。

 

.あの病気の子はどこへ行ってしまったの? マルコ9:20~29

 この時弟子たちに欠けていたものが何だったのかについての“ヒント”を与えてくれる言葉がある。

 「すると、イエスは言われた。この種のものは、祈りによらなければ(神に近くなければ)、何によっても追い出せるものではありません。」←マルコ929

 主は弟子たちに“神に祈ることの大切さ”について幾つかのことを教えている。

 ――祈りの意味――

 .“祈り”は、己の無力さを告白する時間を持つとき

 人は、誰でも祈る時、一切の自分の活動を中断させられる。

 …目を閉じ、両手を合わせる時、人は、この世の一切の仕事から解き放たれるのだ。

 . “屈服をあらわす姿勢”

 ひざまずく姿勢は“敗者”、“負けた者が取るポーズ”であって、 “勝利者がとるポーズ”ではない。

つまり人は祈る時、自分の神に“己の無力さ”をさらけ出し、自分が弱い者、敗者であることを認知し、神に“屈服する”者となることを良しとする姿をとることである。それはすなわち、“謙虚な姿勢”であり、一切をお任せ、お委ねする者になるということであるわけである。

 .“祈り”という言葉は、ヘブル語の原語では、「神に近くいる」と訳せる言葉

 「祈ること」とは、“神に近くある”姿である。

 主は弟子たちに929→「祈らなければ奇跡も癒しも起こらない!」と言われたが、

 逆に見れば、「祈るならば、難しいと思われる奇跡をも起こして下さる」、主はそう教えておられる。

 

そう、弟子たちはかつてイエスから力を備えられはしたが、その力を保ち、維持する為の祈りの重要性を忘れてしまっていたのである。

私たちも同じだ。折角、賜物を頂いていても、神様と密接な接触を持っていなければ、その賜物はやがて枯れ死にしていく。祈りは神との交わりであり、私たちは祈りを通して神に近くあることができる。だから祈りを通して神との密接な接触を維持することが重要なのである。

 ▼かつて“スウェーデンのナイチンゲール(鳴き声が素晴らしい鳥)”と世界の人々から称賛されたソプラノ歌手で、メンデルスゾーンの弟子でもあったジェニー・リンドという歌手は、ステージに立つ前、必ず楽屋で一人になり、

「神よ、願わくは今夜もあなたの前に真実に歌わせて下さい」と熱心に祈った人だった。

もし私たちが神様との祈りによる接触を維持しなければ、その賜物がたとえどれほど大きくても、弟子たちのように、

次の二つのものを失うことになるだろう。

 .活力を失う!

プラスとなる生きた力(癒しの力)を失う。プラス思考とはクリスチャンに約束されているものであるから。

 .二つ目、私たちから“謙遜”が失われる!

私たちは、神の前に鼻持ちならない傲慢な人間となるだろう。役者や芸能人たちが薬物などに手を出したりして逮捕されるニュースがしばしば報道される。辛く、苦しく、大変なのだろう。だから彼らはハイな気持ちを得たい、薬物によってでも自分の力をもっと引き出したいと思う。だがそうではない。

祈りによって神に自分の敗北を宣言し、主の力を戴けば良いのである。

神様の前に降伏を宣言し、屈服し、神の臨在感に溢れるなら、私たちは力を得ることができるのだ。

私たちは賜物を下さった神と継続的に交わる必要があるのだ。

 ▼ロバート・シューラー牧師の娘キャロルは14歳の時、交通事故で左足を失った。ソフトボールの選手だった彼女は七回もの手術を終えて、父親に言った。「私、ソフトボールを続けるわね!」…父親はいぶかって、「だって、もう走れないじゃないか…」、そう諭した。でも娘は言った。

「ホームランを打てば走る必要がないでしょ!」…その後彼女は、筋力トレーニングを強化して、

本当にソフトボールの強打者になって各地で大会に出るようになったのである。

 ある時、家族と船旅に出た時に知らない人に義足をじろじろと見られたキャロルは、

夜のタレント・ナイトの際、舞台に上がり、交通事故で足を失ったことやソフトボールの話をしたりして、次のように語った。

 「私は義足なので、普通の人のようには歩けません。でも人生で大事なことは、どんなふうに歩くかではなく、どんな格好で歩くかではなく、誰と一緒に歩くかだと思うのです。」

誰とは主イエスである。主が生きる活力を与えて下さる。

神の前に祈りを捧げよう。神様の愛を意識しよう。主がいつも一緒だということを覚えよう。

 「…その子をわたしのところに連れて来なさい。」マルコ919

 謙虚な思いで自分が抱え込んでいる課題を主イエスの手にお委ねする。これが強くなる“秘訣”である。

,000人の給食の奇跡の際にも、主は言われた。

 「それ(材料)を、ここに持ってきなさい。」マタイ1418  主のもとに持って行くことが大切である。

 

 連れて来られたこの男の子はてんかん症状を示し、転げ回ってとても辛そうだった。

イエスは尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか?」父親は言った。「幼い時からです。…」マルコ921

 必死に息子の癒しを望む親あれば、「先生、そんな事を話している暇はありません。苦しんでいるこの子を早く見て下さい。癒して下さい!」そう言うのが普通ではないだろうか?でもなぜか冷静な受け答えが続く。主はこれらの“質問”を通して、この父親の問題点をあぶりだしておられるのである。

 「…ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助け下さい。」マルコ922

 〈弟子にも直せなかった。今回イエスにお願いするけれども無理かも知れない。〉…父親の一番の問題点は、こうした否定的な思いにあると主は思われたのではないだろうか?

 「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」

 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」マルコ923.24

 また、弟子たちや群衆の心は、この病気で苦しんでいる子供に向けられてはいなかった。

 でもイエスの目はこの苦しむ子供に注がれていた。

 イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、腕に抱き寄せて… マルコ936

 

 .これから弟子たち、どう生きて行ったらいい? 9:30~37

 .仕える喜びをもって生きる

 93335(マタイ181)→ピリポ・カイザリヤでの信仰告白後、

主イエスは十字架にかかられるまでわずかの時間を、群集を教えたり病人を癒したり、という

今までの活動パターンを止めて、弟子たちとの交わりに集中されるようになる。

▼弟子達はヘルモン山を降りながらガリラヤ湖付近に戻ったが、誰が偉いかという話題で白熱していたようだ。現代にこの光景を置き換えると面白いと思う。「イエス様が大統領であれば、俺は特別補佐官だ!」ヨハネが言うと、「なら俺は国務長官だな」とヤコブが返し、ペテロは「俺は、国防長官よ!」。それを聞いていた9人の弟子が異議を唱え、「最初にペテロを主に紹介したのは誰だったっけ?」、そうアンデレが主張。「何だって?笑わせるな!純粋さなら俺が一番だ!」とトマスが返す。…まあ、こんな感じだっただろうと想像する。子供の頃でも大人になってでも考えることは同じ。

どっちが強いか、どっちが偉いか?である。

 イエスが天に上がられた後で活躍することになる弟子たちに主は、仕える姿勢の大切さについて諭された。

 「誰でも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」マルコ935

仕えることは自分以外の人の笑顔を楽しみにする行為だ。あなたが今週、仕えようと思う対象は誰? 

家族? 職場の仲間? お客様? 仕える行為を自発的に選ぶ人は幸せになれる。

▼家内は食べることが好きだがそれ以上に料理をすることも大好きである。久しぶりに家族が集まったりすると、張り切って幾種類も料理を作る。

 私はと言えば、「ああ、大変だろうなあー」…そう思ったりして、お皿を出したりコップに水を注いだり、お箸を揃えたりするわけである。私にできることはその位しかないからだ。…でも家内は、とっても大変そうだが、辛そうではない。むしろ楽しそう。…どうして?

 思うに多分、彼女は料理を作りながら、また片付けしている時も、みんなが喜び、快適に過ごして満足し喜んでいる顔を思い浮かべる。そうでなければ、とっくの昔、家事放棄をしていたに違いない。 “仕える人”にはこのように特別な喜びが与えられるのなのだ。皆さんのご家庭だって同じだと思う。

 “仕える”という作業はものすごく、喜びを伴う作業なのである。

 .受け入れる喜びを知って生きる

 イエスは次に、“受け入れる”ことの素晴らしさを弟子たちに教えられた。“受け入れる”という行為は“仕える事”と同質の心構えだからである。

 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」マルコ937

 “幼子”とは、弱い者、価値なき者、大人の数に入らない標準以下の者である。幼子を受け入れる為には、自分の安全地帯を出る必要があり、

勇気が必要だ。犠牲を、時間を、労力を払わなければならない。

 主イエスはあなたに仕えるためにあなたの傍まで来て下さった。あなたの罪を洗い落とすために、膝をかがめ足を洗った。すべてあなたの為に。

イエスはあなたを受け入れ、身元引受人となり、私たちを喜んで受け入れ、

<この人は、私の愛する子だ、私の子だ、私が推薦する人だ>と言って下さったのだ。

 .人生の結末を考え、捨てるべきものを捨てて生きる

▼「赤い靴」は、デンマークの童話作家、アンデルセンが発表した作品である。

大体のあらすじ→病気の母親と二人で暮らしているカーレンという少女は貧しく、彼女はいつも裸足で過ごしていた。

ある日足をケガしてしまったところ、心配した靴屋を営む女性に赤い靴を作ってもらった。そんな折、必死の看病も実らずに母親が亡くなってしまう。

 ボロボロの赤い靴を履いて葬儀に参列する孤児になったカーレンの姿を見て、とある老婦人が同情し、彼女を養女にした。その後カーレンは美しい女性に成長するが、ある日靴屋で赤い靴を見つけた彼女はその美しさに心を奪われてしまい、老婦人の目を盗んで赤い靴を購入してしまう。

それからというものカーレンは、教会にも赤い靴を履いて行く。老婦人から注意をされてもやめない。

やがて老婦人が病気にかかっても看病をせず、赤い靴を履いて舞踏会へ出かけるようになった。

すると不思議なことに彼女に呪いがかかる。赤い靴を履いたカーレンの足は勝手に踊り続け、靴を脱ぐことができなくなる。朝から晩まで踊り続け、

ついには亡くなった老婦人の葬儀に参列することもできなかった。

そこでカーレンは首切り役人に足を切断するよう願う。両足首から切られた足は、踊りながらどこかへ去っていった。

その後義足になったカーレンは、これまでの自分の身勝手な行動を恥じ、教会で慈善活動をするようになる。しかし教会の中へ入ろうとすると自分の切った足が踊り続けているのが見え、罪は赦されていないのだと中へ入ることができずにいたのだった。彼女は不自由な体で慈善活動に専念し、

老婦人へ懺悔の祈りを捧げる。ある日も祈りを捧げていると、突然これまで入ることができなかった教会へと場所が変わり、目の前には天使が現れ、

礼拝堂で賛美歌を聞きながら心が平安と喜びに満たされる中、天へと導かれていくのだった。

 

「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、

両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。」マルコ945

この聖書箇所と自分の人生を重ね合わせてアンデルセンは、この童話を書いたと考えられている。

 あなたが陥りやすい罪とは? あなたにとって捨てるべき「赤い靴」とは何? 

 人生の本当の結末(天国行きか?ゲヘナ行きか?)をしっかり見据えて捨てるべきものを今捨て、受け入れるべきものを受け、謙虚さを身にまとおう。

 主にお仕えしつつ、この新しい一週も、主キリストにしっかりと信頼して歩んでいこうではないか。

 

 

  

 

2019.11.17   信徒バルナバに学ぶ ―使徒の働き 4:36~37

 

使徒の働きの中に出て来るバルナバはエルサレム教会のメンバーの一人であったが、12弟子の一人ではなかった。また彼は執事でもなかった。

 バルナバという名は「ニックネーム」である。

「キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフ」使徒436

  彼は初代教会の中で、使徒たちによって、慕われ、格別に愛された人だったと考えられる。

では、このバルナバなる人物の信仰者としての人柄について見てみたい。

 

. カギとなる、最初の箇所 使徒4:33~37

 バルナバには霊的貫禄が備わっていたようである。後に彼はパウロと共にルステラの町に派遣されるが、その町で土地の人々から彼は“ゼウスの化身”と呼ばれている←使徒14:812ゼウスとは、“ギリシャ神話”に出て来る神々の一つで、神々の親分的存在、特別な神であって全宇宙や天候を支配する、神々の王なのである。ルステラの町の人々から見てバルナバの風貌は、そのような迫力、貫禄、オーラが滲み出て見えていたのだろう。

 バルナバは家庭の裕福さ、そこから来るおおらかさ、人柄の良さなどからくるオーラ以上に、

彼がキリスト者として、使徒11:24→「聖霊と信仰に満ち」、人を励ますことができる大いなる信仰者だったからであるに違いない。

だから弟子たちは彼のことを一目置き、本名のヨセフより、バルナバ、「慰めの子」と呼んだのだろう。

 ――私財を投げ売って貧しい人々を慰めたバルナバ――

 彼は私財を捧げ、身を捧げて神と教会とに奉仕した人だったことが判る。←使徒4:3637

 バルナバは持っていた畑を売り、代金の使い道を全て十二使徒に託した。おそらく、エルサレムに住む貧しいクリスチャン、お年寄り、病気の人などを助ける目的であろう。←使徒612。先に見たように、バルナバは使徒でもなければ執事でもなかったが、彼は誰が見ても素晴らしい篤い信仰の心を持ったクリスチャンであった。その周囲を思いやる彼の心は、心からその思いが飛び出して、貧しい人々を経済的にサポートするという実際行動まで溢れ出していたのである。むろんこのような自己放棄の愛の源泉は「キリストの愛」である。

 

. 二番目の箇所、使徒9:26~28に現れるバルナバ

 ダマスコへのアナニヤの派遣と彼の祈りによってサウロの新しいクリスチャン人生がスタートする使徒9:8。しかしその余りにも急激な回心は、エルサレム教会の指導層に不安を与えた。「サウロの回心など、あれは絶対に偽装だ。今までのあいつがやってきたことを思い出せ。彼はユダヤ人たちが送り出したスパイに違いない。我々を一網打尽にする為に、教会の内側に入り込もうとしているのだ!」そのように思うクリスチャンたちが沢山いたし、またそう警戒するのも無理ないことだったと思う。だからサウロが教会内部に入って来ることに慎重になる幹部たちがいたのは確かである。使徒9:26

 ▼しかし、教会の交わりから締め出されてしまっていては、いかにサウロといえども活躍のしようがない。

 …事実この時サウロはユダヤ人から、命を狙われていた

 「彼ら(ユダヤ人たち)はサウロを殺してしまおうと…そこで、彼の弟子たちは、夜中に彼をカゴに乗せ町の城壁伝いに吊り降ろした」使徒92224

 この時仲介者、保証人として、サウロの「身元引受人」となりエルサレムに着いたサウロを使徒たちに紹介、推薦したのがバルナバだったのである。

 使徒9-26.27 

 十二使徒はサウロが教会員となることを拒絶したが、バルナバは違った。彼はサウロの話に真摯に耳を傾け、サウロの信仰と主イエスからの使命(9:5)が本物だと認識し、十二使徒に紹介したのだった。それはバルナバにとっても命がけのことであった。

 ▼それにしても、思うにバルナバは、十二使徒を説得できた程の人物だったということである。彼だったからこそ、責任をもってサウロを「引き受け」ることが出来たのだろう←使徒9:27。この「引き受け」るという言葉の原語は、“抱きとめてやる、しっかり受け止めて助けてやる”などの意味を持っている。仕事を引き受けることは易しくはないが、人間を引き受けること以上に大変なことはないのではないか?信頼の篤いバルナバの保証もあり、使徒たちも安心してパウロを受け入れたのである。こうして見てくると、パウロのデビューにあたって、バルナバが果たした役割の大きさが分かる。

 

. 三番目の箇所、使徒11:22~26に現れるバルナバ

 使徒11:1を見ると伝道宣教が異邦人伝道に移って行く過程が記されている。異邦人宣教の先駆けとなった教会がアンテオケ教会である。

そこにエルサレム教会から派遣された最初の人物がバルナバだったのである。 彼は、「彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人、

 …こうして大勢の人が主に導かれた」使徒11:24と紹介されている。信仰者バルナバの素晴らしい人となりを、ここにも見ることができる。

バルナバの派遣によって、アンテオケの地で大勢の人たちが救われ、アンテオケ教会が生まれたのである。

この教会は異邦人教会の第一号であり、この後、非常に有望な群れに成長して行くのである。

 ▼バルナバはここで得た名声と誉れを独り占めにできたにも拘わらず、それをしなかった。更に彼が偉大なのは、この新しく生まれた異邦人第一号目の教会を、自分の手柄とせず、協力者を求めて、有能なサウロをエルサレムまで出向いて連れて来たことである。

アンテオケ教会こそ、自分ではなくパウロが活躍すべき場所であるとバルナバは考えたのだ。

そしてサウロが、今後、おそらく自分をしのぐ可能性の大きい人物であることを知りつつ …でそうしたのである。

 ▼こうしてアンテオケ教会が誕生し、教会には神の恵みが満ちて「キリスト者」という呼び名がこの地で誕生することになったのである。使徒11:26

 バルナバは母教会であるエルサレム教会の窮状を聞いて、救援物資を募集したり、発送したり下働きをパウロと共に率先して行い使徒11:29.30

また自らも海外への宣教師派遣に応じたのである使徒13:3

 バルナバとパウロは身を粉にして働きを共にしながら異邦人教会を大切に育てた。

 「さてアンテオケには、そこにある教会に…バルナバとサウロとを…送り出した。」使徒13:3

 そして1343節からは、パウロとバルナバの書かれる位置がついに逆転している。

 

. 四番目の箇所、使徒14:8~9に見られるバルナバ

 この13章の逆転以後もまだバルナバとパウロという表現は見られる。たとえば、14:1415:1215:25など…、

しかし次第にこれより後は、次第にパウロの名がバルナバに先立つようになっていく15:2/15:35

 公の席ではパウロはバルナバを立て、伝道旅行においては、バルナバがパウロを立てたということだったのだろう。 

だが、使徒15:36以降のルステラの事件が起きる。

 

. 15:36~39で最後に現れるバルナバ

 使徒1539「激しい反目」と訳された語は、“憤激”と言った意味合いを含む言葉である。福音の戦友たちの間に思いがけぬ波乱が生じた。

 真理の為には一歩も譲らぬ頑固者パウロは、マルコを同労者として受け入れるのに耐えなかったようだ。

 一方懐の深いバルナバはあくまで寛容に、この未熟な若者を“ものにしてあげたい”と祈り願ってやまなかった。

この点に関して両者は鋭い対立を示した。バルナバには珍しい態度であった。

 バルナバにしてみれば、かつて伝道旅行中に脱落したことがあるマルコにやり直しのチャンスを与えたかったのだ。バルナバはマルコを連れて行くかどうかでパウロと対立し、喧嘩別れになり、バルナバはパウロとの友情を失ってもマルコを立ち直らせる道を選んだのである。それは、バルナバが築いてきたアンテオケ教会の地位を失うことも意味したかも知れない。それでもバルナバは構わないと考えたのだ。

 -イエスの遺伝子―-

 ▼主イエスは愛の人である。こうして見てくると、主イエスの愛のDNAを最も受け継いだ人はバルナバだったと言えるのではないか…と私は思う。

 結果を見れば分かることだが、マルコを巡る二人の決裂により、海外宣教は大きく広がりを見せたことになる。

 主は全てのことを働かせて益と成して下さる神なのである。

 そして着目すべきは、パウロの厳しさと同時にバルナバの温かさの両方がマルコに素晴らしい作用を起こして、神はマルコを真に主のお役に立つ器として作り変えて下さったことである。パウロの言い分、バルナバの言い分、どちらが欠けても新しいマルコは生まれなかったに違いない。

 後にパウロは彼の最後の手紙でこう言っている。

 第二テモテ411→「…マルコを伴って、一緒に来て下さい。彼は私の務めの為に役に立つからです。」 

 牢獄に入れられたパウロを仲間たちが次々に捨て去って行く中でルカとテモテとマルコだけは彼について来ていたことが判る記事である

←Ⅱテモテ4:16

 マルコを大きく包み込み、バルナバはパウロとケンカをしてまでマルコを援護した。この時のバルナバのマルコへの愛と懐の深さが、

偉大なマルコの福音書の著者マルコを生み出したのである。

 現代でもマルコのような人は大勢いる。あなたがパウロ役をするか、バルナバ役をするか、それは主が決められるであろう。

 「こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。」使徒16:5

 

-まとめ―-

 私たちはクリスチャン、「小さなキリスト」である。だから私たちもバルナバのようにイエスの遺伝子を受け継いでいる。私たちもバルナバを見習う生き方をしたい。愛しましょう。励ましましょう。引き受けましょう。与えましょう。

 

▼埼玉県の新井淑則(よしのり)さんは、1984年、23歳で、公立中学校の国語の教師になりました。28歳のとき、右目に網膜剥離を発症。その後、養護学校に異動になりましたが、それから10年後、34歳で左目も失明、全盲になってしまいます。約半年間、自宅に引きこもり、絶望の中で自殺も考えました。ですが、妻や家族の支え、視覚障害の高校教師との出会いなどをきっかけに“復職”を決意。37歳で、盲導犬と共に養護学校に復職します。その後、盲学校に勤務。2008年4月(46歳)からは、埼玉県の町立皆野(みなの)中学校に赴任。普通中学の教師として13年後に復帰した経験はテレビドラマにまでなりました。

 新井先生が書いた『全盲先生、泣いて笑っていっぱい生きる!』を読むと、失明前後の荒れた心や生活が分かります。

本のあとがきに、妻の助けなしに、今の自分はないと書かれた文章に私は、感動しました。

あきらめない。逃げない。明るくあれ!をモットーに掲げて新井さんを与え続けた奥さんは本当に立派だと思います。

 

 あなたも見捨てないで誰かを支えて下さい。誰かのために無駄をして下さい。愛するゆえに失うこと、それは、一番人間らしい行為です。

 キリストに愛された者らしい態度です。あなたも、キリストの弟子の一人でしょ?

 

 

 

 

2019.10.13 よみがえったラザロ! ―ヨハネ11:28~44―

 

I.「愛しておられる」ということば!

さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリアであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧下さい。あなたが愛しておられる者が病気です。/…イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ヨハネ111~3/

ベタニヤに住んでいたラザロという人が病気にかかっていた。ラザロはマルタとマリヤの“仲良し三人兄弟”だった。マリヤは、「主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐった…」(ヨハネ12:3とあるように実に深く主を愛していた人だった。このマリヤの兄弟ラザロがこの時、瀕死の重病だったのだ。

▼ところで主イエスはと言えば、この時非常に危険な状態に置かれていた→ヨハネ518/71/719/1031/1033103940ユダヤ人たちの手を逃れ、エルサレムからヨルダンの川向こう、かつてバプテスマのヨハネがバプテスマを授けていた場所に滞在しておられた。ベタニヤからその所までは約三キロの地点。危険な山道である為、徒歩で約一日かかり、女の足では無理であったので彼女たちは使いの者を送った。

   「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」ヨハネ113

   「あなたが愛しておられる者が病気です。」…という言い方に、マリヤたちの気持ちが表れている。

困惑と怒り。(なぜですか?何かの間違いです。主イエス様が特別に愛して下さっていたラザロが病で苦しむはずがない!)

  人は、神に自分の願い通りに動いてもらおうとしがちである。その祈りが聞かれることだと錯覚する。しかし実はそうではない。

  信仰者の正しい態度というものは、いつ、どのようにして癒して下さるかについては、全て主の御手の中にあるのであって、

  主が成して下さることこそ最善!との信仰的態度を持つ必要がある。

 

▼一昨年89歳で亡くなった渡辺和子さん:ボストンの大学で博士課程で学び、36歳という異例の若さで岡山のノートルダム清心女子大学の学長に就任。しかし50歳の頃、重度のうつ病を発症。つらくて“自殺”すら真剣に考え、神様を恨んだ、とも言っておられる。

  ある時クリスチャンの精神科医が、「信仰とうつ病は何の関係もない、恥じることは全くありません。私だってかかったんですよ…」

  そう言ってくれて、本当に慰められたと渡辺さんは語っておられる。

  「意味のない苦しみなど無い。絶対に主のみこころの中にあることなのだ…」とその時から、自分に起こる出来事を何でも積極的に目的をとらえていく視点が与えられたと書いておられる。

 

私たちは信仰を自分の尺度に合わせてはならない。神のみこころが成る。これが最善!と信じて進むこと。これが信仰の極意である信仰とは自分の思いが成ることではありません。神のみこころが成ること、神のみこころに焦点を合わせて生きること、これが信仰的な生き方なのだ。もちろん、神に自分の願いを申し上げることが間違っているのではない。

  求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

  誰でも、求める者は手に入れ、探す者は見出し、たたく者には開かれます。ルカ7910

  熱心に求めることは良いことである。ただそれは、私自身の思い通りになるということではない。

 

 

  何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いて下さるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。Ⅰヨハネ514

  私たちはみこころが何であるかを求め、それが成るように祈らねばならない。その為にはみことばを通して神のみこころを悟ることが大切である。

 

ルカ10:38~42にはイエスがこの姉妹たちの家に来られた時、イエスを彼らがもてなした時の様子が記されている。妹マリヤは主の足もとに座って主のことばに聞き入っていたが、姉のマルタは妹の姿にイライラして、イエス様のところに来て言った。

「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃって下さい。」

その時イエス様は「マルタ、マルタ、あなたは色々なことを心配して(思い煩って)、気を使って(心を乱して)います。しかし、どうしても必要なことはわずか(一つだけ)です。マリヤはその良い方を選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 ルカ104142

 あなたもあの時のマルタのように、色々なことを思い巡らして、心を乱してはいないか?

一つとは何か?それはマリヤのように一心に主のみことばを聞く姿勢である。彼女たちのこのような謙虚な信仰は、

みことばに一心に聞き入ることによって心に湧き溢れ出て来る。

 

私たちの人生でも、自分を含め、愛する者が病気になることがある。自分でもどうしたらよいのか分からない、そんな問題に直面する時が

誰にもある。そんな時、自分の思いが先走って、「主よ、こうして下さい」とか、「ああして下さい」と言うようなことがあるのではないか。

でも最も大切なことは、主が私を愛して下さっている。だから主が私に成されることは絶対に最善が成されると信じて歩むことを覚えたい。

 

 II.「…このことを信じますか?」ということば

  「イエスは言われた。『私は、よみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです。

  また、生きていて私を信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」ヨハネ1125

主イエスは、マルタとマリヤからの使いが来た後も、二日間この場に滞在されたとある。この二日間、なぜ主はすぐに行動されなかったのか?

神様は、私たちが「こうして欲しい…」と思う時、期待を“裏切られる”場合があるのだ。

そんな時是非、覚えていて欲しいと思う。

実は、神は私たちが望んでいるものより遥かに高く、また素晴らしいものを私たちに与えようと準備しておられるということを…

  あなたの恵みは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶからです。 詩編5710

  天が地上遥かに高いように、御めぐみは、主を恐れる者の上に大きい。 詩編10311

  なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存知だからです。Ⅰヨハネ320

主はラザロを深く愛しておられた。だが、主の愛は必ずしもラザロの元へ“直行”することではなかった。

――癒しよりハードルが高いよみがえり!――

マルタとマリヤの二人が求めた試練脱出の道は、兄弟ラザロの病気が治ることだった。

だが主が与えたかったものは更にハードルが高い、死からのよみがえりという事実だったのだ

人は死んで、それで全てが終わりではない、ということをラザロの死を通して示されたのである

病気が治ったとしても、それは一時的に過ぎない。必ず死はしつこく追いついて来る。

私たちの人生には、どうして様々な苦難や不条理が起こるのか?それは神の栄光の為なのだと知る必要があるから。

――主はなぜ二日間も留まられたのか?――

主は…ラザロが死ぬのを待つために主は留まられた。理解する鍵は、11:4節のイエス様のことば。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」すなわち、イエス様は、行動を起こすべき神の時を待っておられたのである。

クリスチャンである私たちにとっては、全てのことは、神の栄光の方向に動いている

  「わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。

   さあ、(死んだ)彼のところへ行きましょう」ヨハネ1115

イエスはラザロの死を知っておられ、そして彼をよみがえらせることもすでに決めておられたのだ。

イエスは「このことを信じますか」と、マルタに問われた(11:26)。このイエスの問いかけは、そのまま私たちへの問いかけでもある。また、それに対するマルタの告白はそのまま私たちの告白となるべきだ。あなたはどうするか?私たちは昨日より今日、今日より明日と確実に死に向かって歩いている。

シビアな世界にあって、死が死に終らず、滅びに至らない、死に対する勝利の道を神はイエスにおいて備えて下さっている

「主よ。あなたは神の子キリストです」と告白する者に神は賜物としていのちを与えて下さる。

イエスの声に私たちも耳を傾けよう。「あなたはこのことを信じますか」

 

III.「…ラザロよ、出て来なさい!」ということば!

そしてイエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』すると… ヨハネ1143

ベタニヤに到着された主イエスは、ラザロが葬られた墓場へと案内された1138。ラザロは葬られ、すでにもう四日を経過していた。兄弟を亡くして悲嘆に暮れているマルタとマリヤを慰める為に、墓には大勢の人々が集まっていた。人の死に際して、人間には悔やみのことばを述べること、泣くことくらいしかできない。死という事実を前に、人は無力であり、死は人間の限界を知らせる。

――弔問客の目線とイエスの目線の違い――

しかしイエスは違った。ベタニヤに出発するにあたり、11:11ラザロを眠りから覚しに行くと言われたのだ。弔問客はマルタとマリヤのもとに来たのであって、死んだラザロに用があったのではなかった。

しかしイエスはあくまでも死んだ者となっていてもラザロのところに来られたのだ。

  「彼をどこに置きましたか?」イエスは涙を流された。ヨハネ11-34.35

  「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」ヨハネ1139

人間、誰一人として死(滅び)を回避できる者はいない。

イエスの涙は、マルタ、マリヤの姉妹に対する真の友情と同情を表している。イエスは喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣いて下さるお方。

  私たちの大祭司(神の子イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。

   ・・すべての点で私たちと同じように、試みに会われたのです。へプル415.16

キリスト者が愛する者を亡くして涙に暮れていてもそれは不信仰なことではない。イエスは彼らと共に涙を流されたお方、だから私たちはイエスに対してやせ我慢をしたり気負ったりする必要はなく、自分の正直な心を知っていただくことが大切である。

主は泣く者の涙をご自分の涙とし、彼らの悲しみと苦悩を代って負って下さる。

   さて、墓の前まで来たイエスは、「その石を取りのけよ」(1139と言われた。

それはイエスが墓の中に入る為ではなく、ラザロが墓から外に出て来る為でありました。

イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、と私は言ったではありませんか。その石を取りのけなさい。」1140

主イエスと主イエスのことばに賭ける。そうすれば必ず神の栄光を見ることができるのだ。

――石(信仰の障害物)を取り除け!――

イエスは彼らに石を取り除くように求められた。

イエスはご自分で石を取り除こうとすればいとも簡単にできたはずなのに、その働きを人間の手に委ねられた。

私たちの周りにも、私たちの手で取り除くように言われている石はないだろうか?

捨て去らなければならないもの、切り捨てなければならないものはないだろうか?

障害物を取り除くことで初めて私たちは、神の溢れるばかりの恵みと湧き出て尽きない喜びの祝福に預かるのである。自分の内に取り除くべきものがあることを示されたら、すぐにその御声に従うことだ。神の大いなる祝福を受ける為に。

114041彼らは石を取り除き、イエスは目を天に向けて祈られた。それもラザロをよみがえらせる力を与えて下さいと祈ったのではなく、

御父がイエスの祈りをすでに聞いて下さっていることを感謝して祈ったのだ。

「わたしはあなたがいつも私の願いを聞いて下さることを知っておりました。しかし私は、回りにいる群衆のために、この人々が、

あなたが私をお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」ヨハネ1142

「ラザロよ。出て来なさい」と、権威に満ちた大きな声で命じられると、完全に死んでいたラザロが手足を布で巻かれ、

顔を布で包まれたまま墓から出て来たのだ。死で終らないと宣言されたお方が彼にいのちを賜わったのだ。

この奇蹟は一つのしるしである。イエスご自身がよみがえりであり、いのちであることの証明である。

さらにイエスを信じる者に、今その場で永遠のいのちを賜わり、彼らを終りの日によみがえらせることを保証するしるしでもあったのである。

――黄泉から連れ戻して下さるイエスの呼び声!――

体を離れたラザロは、一体どこでイエスの声を聞いたのだろうか?彼はこの時、天国ではなく、地獄でもなく、地上を離れて黄泉にいた。キリストの十字架による救いを信じることの他に、人は神の国に入ることはないからである。また地獄にはまだ誰も行ってないからだ。人が地獄すなわち永遠の炎に投げ込まれるのは、マリヤがいう11:24→「終わりの日」の裁きのあとである。聖書には、死者は陰府(よみ)に入ると明記されている。陰府に置かれていたラザロはイエスの言葉を聞いて、そして引き戻されたのだ。

ここに私たちは、イエスの言葉が陰府にいる者をも従わせるのだということを教えられる。

  たとい、私が天に登っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます   1398

  あなたが私のたましいをよみの深みから救い出してくださった  詩編8613

  黄泉も神の前では裸であり、滅びの淵も覆われない。ヨブ266

「ラザロよ。出てきなさい!」という主の「叫び」は、風を叱り、湖に「黙れ。静まれ」と命じるイエスの、

ラザロに対する「陰府にとどめられるのではなくわたしに従え」という命令であり、陰府に対する「ラザロをひきわたせ!」という命令であった。

 

▼2011年3月11日に発生した東日本大震災の日、阿部さん夫妻は、旅行中で津波のよ難から逃れたが、気仙沼の自宅は全て消失、通っていた気仙沼第一聖書バプテスト教会も土台だけとなり、自営業として営んでいた印刷会社の建物には1.6メートルの高さの泥水が浸入、総額1億円の被害を受けて打ちのめされ、再起不能とあきらめて泣き崩れた。外国人クリスチャンがボランティアとしてやって来て、掃除、建物の改修を助けた。5月の連休に訪れた三女の夫が信仰告白してクリスチャンになり、5月の末には小規模ながら印刷業を再開、地震から一年後には本格的な印刷機を購入し、印刷業に復帰できた。阿部さんは言う。多くの人が助けて下さった。どんな苦しみの中でも、神が愛を注いで下さった。

最初は下を向いていた。だがそんな中でも、主の深い愛をいつも感じていた。次第に、前を向き始め、最後は上を向けるようになった。そう言っている。小さな印刷会社の建物には、旧約聖書の言葉が掲げられている。 

大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。 雅歌 87

 

 

 

 

 

 

 

2019..29  ―注目すべき三つのことば!使徒28:30~31

こうしてパウロは、満二年の間、で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて、大胆に、少しも妨げられることなく、

神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。 使徒の働き28:30~31

 

 Ⅰ.~「こうして!」ということば(30節)

  この「こうして」ということばは使徒の働きには頻繁に使われている。6:7/8:25/9:31/13:49/16:5/19:20/28:30

…また「こうして」ということばが記されている所では常に教会がどのようにして生まれ、どのようにして形成され、どのように発展していったのか…、

さらには教会を通してどのように世界宣教のわざが進められていったのかということについてが記されてきた。

  そして最後のこの箇所も、「こうして」ということばで締めくくられる。だから「こうして」ということばはただ単に前の出来事を受けているのではなく、使徒の働きの最初のところから記されてきた全ての内容を受けてのことばであるのだ。

  ではどのようにして福音が世界の中心であるローマにまで伝えられることになったのか?それは聖霊の力によって、キリストの証人たちを通して

この宣教物語は実現したということなのだ。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 使徒1:8

このことばは使徒の働き全体の鍵になる。このことばを中心にどのように福音がエルサレムからユダヤ、サマリヤ、

そして地の果てまで宣べ伝えられていったのかについて描かれているからだ。

  宣教は人間の努力や力によるものではない。聖霊なる神の力によるものだということを教えている。福音を宣べ伝える人間には限界があるが、

その働きの主なる聖霊に限界というものはないからである。なぜなら聖霊は有限ではなく無限なるお方だからだ。

この聖霊の働きによって福音は地の果てまで伝えられてきたのだということを、ルカは私たちに伝えようとしているのである。

ルカはこの前の書、ルカの福音書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書いたが、

それに続くこの使徒の働きでは、天に挙げられたイエスが聖霊を通し、教会を通して成された御業について記している。

わたしは父にお願いします。そうすれば父はもうひとりの助け主をあなた方にお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。 私はあなた方を捨てて孤児にはしません。わたしはあなたがたのところに戻ってくるのです。 ヨハネ14:16~18

  実に、キリスト教会は聖霊によって建て上げられていくのであって、福音宣教のわざも聖霊によって行われていく。

▼アメリカ、カルフォルニア州のサドルバック教会、リック・ウォーレン牧師は、著書の中で言う。

「牧会というのは海でサーフィンをする人のようだ。彼は自分で波をつくることはできないが、向かってくる波に乗ることはできる。このように聖霊様の波をよく見極めて、その波に乗ることが成功する牧会だ。」

聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けるのです。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、キリストの証人になることができるのです。 使徒1:8

この使徒の働きはまだ終わってはいない。「地の果て…」がまだ残されているからだ。それは現代も続いている、現在進行形、現代進行形なのだ。2010年の統計によればこの日本でさえ、まだ教会のない市町村が全国に1,500以上もある。この日本には福音が伝わっていない「地の果て」の地がまだ沢山残されている。そういう人たちに一体私たちはどうやってこの神の国と主イエス・キリストを宣べ伝えいくことができるのか?

「こうして」、すなわち、聖霊の力によってだ。であれば私たちがご聖霊に満たされること、この聖霊が働かれることの妨げとならないように注意しなければならない。常にご聖霊が自由に働かれるように、その道を整えていくことを心がけよう。

風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くのかを知らない。

御霊によって生まれるものもみな、そのとおりです。 ヨハネ3:8

 ▼イエス様「風はその思いのままに吹く」。文語訳では「風は己が好む所に吹く」と訳されている。ここで言う「風」とは聖霊を意味している。聖霊には人格(ペルソナ)があって好みがあるのだ。その好むところに聖霊は風のように吹くというのである。聖霊を宿していないクリスチャンはいないが、それはその人を聖霊が喜んでいるという意味では必ずしもないのだ。だからパウロはエペソ人への手紙の中で、「聖霊を悲しませてはいけません」(エペソ4:30)と書き送っている。聖霊が悲しまれることがある。聖霊が悲しむようなクリスチャン、聖霊が働けないクリスチャンがいる。そのような場合には聖霊に満たされ、祝福がその人を満たすことはない。聖霊に好まれる教会、聖霊に好かれるキリスト者でありたいと思う。それによって教会も私たちも祝福に満たされたキリスト者となることができるのである。そう、神様に願い、祈ろう。

 

 Ⅱ.「訪ねて来る人たちをみな迎えて」ということば!(30節)

パウロは満二年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて伝道した。満二年の間というのは釈放の手続きも含めた拘留期間を指している。当時のローマの法律では告訴した側が18ヶ月以内に法廷に出頭しなければ被告は釈放されることになっていた。つまりパウロがこの間、自費で借りた家に住んでいたというのは、躍起になってパウロを訴えたエルサレムのユダヤ教の当局者たちが、ローマまでやって来てパウロを告訴することをしなかったことを意味している。つまり、パウロは裁判で無罪を勝ち取ったということなのだ。

しかし裁判では勝利したものの、この二年の歳月は彼にとって取り返しのつかない大切な時間であったはず。というのもその失われた歳月は戻って来ないからだ。その時間を不自由な獄中で過ごさなければならないというのは本当に辛いことだったのではないだろうか。

  ところが、聖書はそう伝えてはいない。彼はこのような不自由な身であるにも拘わらず、「たずねて来る人たちをみな迎えて」、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えたと言うのだ。「たずねて来た人たちをみな迎えて」というのは、彼があらゆる機会を用いて福音を伝えていたということ。

獄中で出会った奴隷オネシモへの伝道もそうだった。確かにこの時のパウロは鎖につながれた囚人であった為に、

ユダヤ教の会堂や広場に出て行って伝道することができなかった。しかし“閉鎖的空間”に置かれていても彼は自分にできる伝道をしていたのだ。

エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピレモンへの手紙といった彼の手紙の幾つかは、この時に書かれたであろうと考えられているが、軟禁状態にありながら彼は自分にできる証詞を積極的に行い続けた。自分の力に依らず聖霊の力により彼が歩んでいたからそうできたのだ。

さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。 ピリピ人への手紙1:12~14

パウロは自分が捕らわれの身になったことが、かえって福音を前進させることになったと言っている。

  二年間、番兵が交代で「親衛隊」(ピリピ1:13)から派遣され、パウロの身辺の監視に当たったが、その番兵が兵営に帰る度に、パウロから聞いたキリストの周囲や家族の人々に話をしたので、やがて親衛隊全員にキリストのことが知れ渡ったばかりか、兄弟たちの大多数が主にあって確信が与えられ、増々大胆に神のことばを証詞するようになったというのだ。

パウロはどんな中でもあらゆる場合に、機会を“伝道のチャンス”ととらえて証したのである。

「…自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて…」その家はもちろんパウロの家ではなかった。彼は捕らわれの身で、ローマの番兵さえついていたのだ。そんな生活にあっても彼の家にはいつも神の祝福があったのである。人はみな土地つきの家に住みたい、自分の家族だけのマンションに住みたいという願望があるが…、生涯死ぬまで借家であってもどんなぼろ家でも聖霊に好まれ、神の国の住人の家で、訪ねて来る人に神の国の福音が宣べ伝えられる処であれば、そこは祝福の場所なのである。

かつて明治期、帝国議会の議長を務めたクリスチャンの政治家に片岡建吉(1843~1903)という人がいた。この人は、どんなに多忙でも日曜日の礼拝を厳守したクリスチャン政治家だった。彼は高知教会の一信徒として自ら好んで率先して教会の玄関番を買って出て、ためらう新来者たちを優しく温かく迎えたのだった。後に「私は高知教会の玄関で救われましたのですよ」という人が何人も出たそうだ。こういう人こそ訪ねて来る人たちをみな迎える良き証詞人なのである。

 

Ⅲ.「少しも妨げられることなく」ということば!(31節)

少しも妨げられることなく伝道できたという事態は、パウロにとっては“奇跡”としか言いようのないことだった。

これまでのパウロ伝道を振り返ってみると、ユダヤでの伝道にしても、アジヤおよびヨーロッパでの伝道にしても、常に妨害と迫害続きの伝道旅行だったのだ。

それがこの時、世界にその文化と政治と軍事力を誇る大ローマ帝国のド真ん中で、しかも彼は囚人の身でありながら自由に伝道ができていたとルカは言っている。

原文でこの箇所は、「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストを教えた。少しも妨げられることなく。」となる。この文章が一番最後の結びのことばになっているのだ。著者ルカは、福音のことばは決して繋がれることがないのだということを示したかったのだろう。つまり彼はみことばの実力と勝利とを、この文章を最後に持ってくることで表したかったのである。パウロは若き伝道者テモテに、こう書き送っている。

私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。…Ⅱテモテ2:9

神のことばはつながれることがない。「福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じる全ての人にとって、救いを得させる神の力なのです。」たとえ、どんなに政治的圧力や束縛があっても、どんなに鎖で縛られ、また火で焼かれるような状態に置かれるようなことがあったとしても、みことばがつながれることはない、聖書はそう教えている。従って、この神のみことばを持っている人はいついかなる時でも、「少しも妨げられることなく」大胆に語ることができるのである。

さて使徒の働きは、この28:30~31で終わっているが、それはまだ本当は完了ではない。

やがて主が再びこの地上に来られる日まで続くのだ。そういう意味で、私たちクリスチャンはこの使徒の働き28章32節以降を書き続けていかなければならない。

  初代教会が、使徒たちが、パウロが、聖霊に依り頼んで、御霊に満たされ、御霊に導かれて、大胆に神の国と主イエス・キリストを宣べ伝えて行ったように、私たちも今聖霊によって大胆に、少しも妨げられることなく、みことばを宣べ伝えていかなければならない。私たちは弱く小さいが、この素晴らしい神のみことばに励まされて、私たちの内に住まわれる聖霊の力によって、この委ねられた福音宣教のわざを果たして行きたいと願う。聖霊こそは、人を滅びの中から救い出し、罪の奴隷から神の子どもに変えることができるお方であり、まことのいのちを与えることができるお方だからである。

私は言います。御霊に満たされなさい。ガラテア5:16

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。ガラテア5:25

 

 

 

 

 

 

2019.9.8  第一主日朝礼拝 なにゆえ主はゲラサの地に行かれたか?  マルコ5:1~

  

「こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。…」マルコ5:1

イエス様の活動はカペナウムという町を中心としたガリラヤ湖西岸地域だった。 一方、「ゲラサ人の地」というのはそのガリラヤ湖東岸のデカポリス地方であり、「ゲラサ人の地」というのはユダヤ人でなく異邦人の住む地域だったのだ。

 ガリラヤのカペナウムでは、マルコ1:21→主は会堂で教えられ、また1:40ではライ病者の癒し/2:3以降では中風の男の癒し/3:5手の萎えた人の癒し→…など、主イエスは様々な業(わざ)によって神の権威を現わされたので、ガリラヤではイエスについてはよく知られており、いつもおびただしい群衆に囲まれていた。

  だがある日、突然イエス様は弟子達に、4:35→「さあ、向こう岸へ渡ろう!」と言われて自ら小舟に乗り込み、対岸のゲラサまで下って行かれたのだ。

 ただマルコ5:21節「イエスが舟でまた(再び)向こう岸に渡られると、大勢の人の群れがみもとに集まった。…」と書かれている所から見ると、このゲラサ地方にはほんの短時間だけの滞在だったことが判る。

 このことは何を意味している? イエス様は気まぐれでこのゲラサの土地を訪れたのか?

 否、イエス様は敢えて無理を承知でゲラサを訪れる必要を感じられ、危険な夜の船旅を決行されたのだ。

 

 マルコ4:35~41を見てみよう。イエス様一行が、いかに激しい嵐の中で湖を渡ってゲネサレに向かわれたかが判る。ここに「何とかして、ゲネサレに行かねばならない!」とのイエス様の強い意志を感じ取ることができる。…このゲネサレへの旅は実際厳しい船旅となった。湖に激しい嵐が発生した。イエスが4:39→で、「起き上がって、風をしかりつけ、湖に黙れ、静まれ!」と命じられなければ小舟は粉みじんに湖に砕け散ってしまっていたことだろう。

 

▼もう一つ、イエス様はこの時大変疲れておられた。その日は目いっぱい主は働かれていた。更に出発時刻は夕暮れ時。灯台もなければコンパスもナビもない時代のこと、浅瀬や深みも見えない。持っていたランプの灯もこの時の大風で消えてしまっていたことだろう。…嵐、恐怖、絶望、不安…の中でこの夜の船旅がどんなにイエス様にとってきつい旅であったか…。ではそんな中で、なぜ敢えて15~20キロもの距離がある対岸ゲラサ地方への旅を敢行されたのか? 

 

. 失われた羊を探して救い出す為に行かれた!

 マルコ5:1~2→「こうして彼らは…着いた。」

 やっとゲラサの地に到着したのも束の間、舟を降りられると、すぐに一行は、5:2→「(墓場に住む)汚れた霊に取り付かれた人」に遭遇する。

 イエス様はこの悪霊に憑かれた男に会う為、スペシャルでこの地を訪れたのだった。それは5:2→「…すぐに汚れた霊に憑かれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた」…という表現からも分かります。墓から出てきて闇の中で彼はイエスの到着を今か今かと待っていたのです。

 イエス様はこの男の心の渇きと心情をご存知だった。だから敢えてこの地を訪れたのだ。

 

 マタイ18:12~14→「あなた方はどう思いますか。もし誰かが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を探しに出かけないでしょうか。そしてもしいたとなればまことにあなた方に告げます。あの人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。このようにこの小さい者たちの一人が滅びることは、天にいますあなた方の父の御心ではありません。」

 

イザヤ46:3~44→「ヤコブの家よ、わたしに聞け。イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。」

 

これは、紀元前8世紀頃に書かれた、あなたに対する神の預言的ことばである。

 神様はあなたの価値をよく知っておられる。人は他人の存在価値を正しく評価することはできない。聖書の神は天地万物を造られ、人間を造られた創造主であり、あなたという人が存在するために今もあなたに働いておられるお方なのだ。そしてあなたを苦しめる死の恐怖からあなたを救って下さるお方。また神にとってあなたはかけがえのない存在。神は罪のために滅亡に向かっているイスラエルに対し、イザヤ46:4「あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう。」とおっしゃる。同じく罪深い私たちに対し、「それでも、わたしは背負う。」と仰せられる方なのだ。

 神はあなたを愛しておられる。神はあなたという存在にご自分のいのちに等しい価値を認め、あなたの罪の為に人となって十字架で死によみがえって下さった方なのだ。

 あなたはイエス・キリストを救い主として信じ、罪赦されて、神の国で永遠に生きていくべき存在である。あなたは神にとってかけがえのない愛の対象であり、あなたには神の御子のいのちの価値がつけられている。

 あなたは神と共に今を、そして、永遠の天国で永遠に生きていくべき存在。これが神のあなたに対する絶対評価なのだ。

 

 Ⅱ. 悪霊を滅ぼす為に主はゲラサへ来られた!

 

   聖書を読む時、イエス様が活動される時にまず現れるのが悪霊たちだ。イエス様が公生涯に入られる時も、悪魔・悪霊の半端ない力がイエス様を滅ぼそうとして活発に働いた。

 マルコ1:39 イエスはガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。

 1:23~26→ある男に取り付いた汚れた悪霊。 5:2「…イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。」

  人々がイエスを知る前から「汚れた霊」は、イエスのことを察知して早々と挑んで来ているのだ。

 「汚れた霊」とは神の支配を拒もうとさせる霊的力であり、私たちに罪を犯させようと誘惑する力…

 そして、この「汚れた霊」は主イエスの到来によって神様のご支配がこの地に及ぶことを最も恐れて、また警戒しているのだ。

 「…だからこう祈りなさい。」と主は言われました。「天にまします我らの父よ。御名を崇めさせ給え。御国を来たらせ給え。…。我らを試みに遭わせず、悪(悪魔・悪霊の力)より救い出し給え。アーメン。」

  …悪霊にとっては、主イエスだけが自分の立場を脅かす唯一の強敵。イエスが来られたことで、彼らは自らの居場所を失う。だから彼らは異常と思えるほどにイエスを恐れているのだ。

  マルコ3:20~23では、主イエスの身内の者たちが主イエスについて“気が変になっている”という噂がなされていることを聞いて、主イエスを取り押さえに来たことが記されていた。イエス様の身内にまで、サタンは侵入してイエスを「気ちがい扱い」にしようとした、まさに悪霊恐るべし、だ。

 

▼さてこの人は墓場を住み家としていた。5:3~4→「この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼は度々足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、誰にも彼を抑えるだけの力がなかったのである。」

 人間の力には限りがある。この気の毒な男は人々の中で暮らすことを断念して、自ら墓で生活していたのかも知れない。墓でこの人は叫んだり自分の体を石でたたきつけたりしていたのだ。いわゆる自傷行為である。

 ▼近年日本でも、青少年における自傷行為が増えていることが報告されている。リストカット、自分の手を噛む、壁や床に頭を打ち付ける、など、、、

 この苦しむ男を主は助け出そうと計画されていたのである。

  

. そして主はこの男に憑く悪霊を滅ぼされた!

 

   「汚れた霊」は他でもなく私たち人間の世界で今も日々働いている。想像を絶するような凶悪犯罪、戦争における大量の殺戮が今も日常茶飯事で起こっている。そして私たち自身も、この世の勢力の影響を日々強く受けている。

 ▼ただ幸いなことは、悪霊どもがこうイエスに言っていることに耳を傾けなければならない。

 マルコ5:7→「いと高き神の子、イエス様。いったい私に何をしようと言うのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないで下さい。」

 つまり悪魔・悪霊どもも、イエス・キリストを神の御子と認め、そして恐れていることが判る。

 このことばを私たちは武器として戦うことができる。「いったい私に何をしようと言うのですか」とは「私とあなたに何の関係があるのですか」という意味の言葉であり、主イエスと無関係でありたいというのだ。

   だから私たちは悪魔・悪霊の働きについてはイエス・キリストと絡めて戦う必要があるのだ。この「わたしとあなたに何の関係があるのですか、ほっといてくれ!」という態度は、しばしば私たちが取る態度でもあり、最も悪魔に利用される、つまり敗北する為には良い言葉なのではないか。この態度が自分のものとならないように努めねばならない。

 

「あなたと関係を持ちたいのです。主よ!あなたの絶対的力が必要です!」と主に叫ぶなら、私たちは主に必ず助け出される。孤独ではなくなる。「私はあなたを見放さず、あなたを捨てない!」「私はあなたを愛している」主イエスキリストは、あなたにそのように語っておられる。あなたがこの男のようにイエスに近づくのだ。そして、「主よ、私をお救い下さい!」と申し出ればそれで良いのである。

 汚れた霊は一人の人に取り付いている一つの霊のようだが、実際は多くの霊だ。一人の人の中に住むおびただしい軍勢とも言うべき汚れた霊の姿である。

 私たちは世において、様々な関係の中で生きている。職場の中、家族の中、学校の中、そして、関係を持つ人それぞれに対して自分がとる態度というのが異なる。そしてその時々に応じて様々な思いや隣人の声に支配されて生きている。汚れた霊に取り付かれている状況というのは、そのような私たちの姿と似ている。様々なものに支配されている中で、本来の自分自身を見出すことが出来ない分裂した状態なのではないか。

 

 ▼汚れた霊は、主イエスが「汚れた霊、この方から出て行け」と言われたことによって、必死に、自分の居場所を確保することに努めた。ひれ伏し、自分を追い出さないようにしきりに願うのだ。挙句の果てに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と主イエスに取引じみたことを持ちかけるのである。イエスがお許しになると、豚の中に入る。その途端に、二千匹もの豚の群れが崖を下って湖になだれ込んで溺れ死んだ。 一方で、レギオンに取り付かれていた人は服を着、正気になって座っていたと記されている。ルカによる福音書には、ここを「イエスの足もとに座っている」と記す。ここには主イエスの支配に服従する姿が示されている。この人は主イエスの神の子としての権威の前で、多くのものに支配されたカオスの状態から彼は解放され自分自身を取り戻したのである。

 

▼汚れた霊が乗り移った二千匹の豚は湖になだれこんだことが記されている。何の犠牲もなくこの人が汚れた霊から解放されたのではない。二千匹もの豚が湖になだれ込む姿というのは想像も出来ないような事態だ。一人の人を支配した汚れた霊の力によって、これほどのことが起こるとは誰も想像できなかったはずだ。豚飼いは逃げ出した。汚れた霊に取り付かれていた男自身も、それを見ていた人も、この光景には驚いたのではないだろうか。この被害の大きさに人間が「汚れた霊」から解放されるために必要な代償の大きさが示されているようにも思う。私たちは払われた犠牲を見て、初めて自分を支配していたものの大きさを知ることが出来るのだ。

 

▼私たちを汚れた霊から解放するための犠牲として主イエスは十字架に赴かれた。主イエスは自ら、人から見捨てられ、神からも捨てられつつ墓の中へと赴いて下さったのだ。私たちが汚れた霊から解放されるためには、十字架のキリストという犠牲が必要であった。主の十字架を見上げる時、自分の救いと共に汚れた霊に支配される中で自分が犯した罪の大きさというのを知らされる。

 

▼主イエスはイエスに従うことを望んだ、汚れた霊から解放された人をこの地において行かれた。

 マルコ5:19 「 あなたの家、あなたの家族の所に帰り、主があなたに、どんなに大きなことをして下さったか、どんなにあわれんで下さったかを、知らせなさい。」

 彼はデカポリス地方における最初の宣教師となった。

 主イエスに救われたものとして、主イエスのなさった業を「知らせる」時に、それは、主イエスの福音の宣教となるのだ。

 この男の人生に神の祝福の御手が豊かに注がれ始めた。神様のご支配が悪霊に変わって彼の心を支配し始めたのである。

 

 

 

 

 

 

2019..25. 第一礼拝 パウロから私たちへの三つの指示!   Ⅱテモテ3:1~17 

 A・D67年頃、パウロは死を目前にし、弟子のテモテに宛ててこの手紙を書いた。この手紙はパウロの「遺言状」とも言える書簡である。

 ▼神のことば、聖書は人間の能力が無限の可能性を持っていることを認めていない。聖書は人間の“罪の現実と悲惨”とを余すところなくえぐり出し、暴露し、人間の歴史に「終りの日」が来ることを告げ、「その日の為に備えをせよ!」と告げているのだ。3章の始めでパウロはテモテに「終りの日」の世相を語っている。そしてキリスト者にこの点においてどう対処すべきかを教えている。“終りの日”が到来することは確実だ。→Ⅱペテ3:8~10

 したがって私たちクリスチャンの生活の焦点は、この「終りの日」に合わせられるべきであって、そうして初めて、私たちの信仰生活は健全なものとなるのだ。そして教会の祈りは、結晶して「マラナタ」(主イエスよ、早く来て下さい、アーメン)ということばに帰結するのである。

 ここでパウロは、「終りの日」に向かうクリスチャンに、三つの指示を与えている。 

 

I.  「終りの日」に正しく向き合い、悔い改めて日々を歩みなさい!

 終りが近づいた時代には、この世界にあらゆる“悪徳”が生じることをパウロは教えている。

 3:2~5節までの中に、彼は19の悪徳のリストを載せている。終りの時代が近づくと、人々は、

1.自分を愛する者、2.金を愛する者、3.大言壮語する者、4.不遜な者、5.神を汚す者、6.両親に従わない者、7.感謝することを知らない者、8.汚れた者、9.情け知らずの者、10.和解しない者、11.そしる者、12.節制のない者、13.粗暴な者、14.善を好まない者、15.裏切る者、16.向こう見ずな者、17.慢心する者、18.神よりも快楽を愛する者、19.見える所は敬虔であってもその実を否定する者、となるのである。

 ここに書かれる19の“悪徳リスト”は、ローマ人への手紙1:29~32の悪徳リストに似ているが、ローマ書の場合と違う所は、ローマ書の場合、これらの悪徳が“未信者の悪得リスト”であるのに対し、こちらは“信者の悪徳表”であるという点だ。

 私たち現代のクリスチャンも十分警戒しなければならない。私たちは神に背くことを承知の上で、故意に反逆を止めない罪人を神が赦されないことを覚えなければならない。私たちキリスト者は聖書の中で“罪の赦し”が「悔い改めよ」という命令とつながっていることをしっかり覚えなければならない。

“悔い改め”が伴わない“救いの教え”は、教会を堕落させる元凶となる(2:21)

 ▼10年ほど前、アメリカの州知事が、州立刑務所をお忍びで訪問した。知事は真面目そうに見える囚人の一人と会話を始めた。そして「その囚人を赦免してやりたい…」という気持ちをひそかに感じていた。“恩赦”である。…知事はこの囚人に尋ねた。「…もし君が幸運にも“特赦”を受けて出所できたとしたら、まず何をしたいかね?」と…。囚人は、自分の話している相手が誰か分からないのでこう答えた。「出所したら、まずいの一番に、俺をこの刑務所にぶち込んだ裁判官に仕返しをしてやりたい!」そう怒鳴り立てたのだ。…知事は、この囚人との会話を打ち切ると、その場を立ち去った。…その囚人は今も変わらず服役中である…。

“罪の赦し”は、聖書の中ではいつも“悔い改め”という命令としっかりつながって使われていると言った。“悔い改め”が伴わない救いの教えは聖書にはない!

 

II.. 信仰の先達の良き模範に習いなさいということ!

 しかし、あなたは、…アンテオケ、イコニオム、ルステラで私にふりかかった迫害や苦難にも、よくついて来てくれました。何というひどい迫害に私は耐えて来たことでしょう。しかし、主は一切のことから私を救い出して下さいました…14→けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。(3:10~15)

 私たちより前にすでに先に天に召された人々、素晴らしい主にある兄弟姉妹が沢山いた。そういう“恵み”(信仰のプラス遺産)“を忘れてはならない。こういった信仰の先人たちからキリストに対する信仰を私たちはしっかり継承して行かなければならない。彼らの信仰や人柄についても思い起こしては、彼らに学ぶ者となりたい。彼らの前に私たちは襟を正し、先輩方から学び得た“信仰の姿勢”を忘れないでいたい。信仰の先輩方から伝えられてきた教え、教会生活を守ること、

生活の中での真剣な祈り、聖書を読むこと、神からの直接的な教えを戴くこと、捧げることによって受ける大いなる人生の祝福…。

 ▼パウロはいつ死刑になるか分からないような緊迫した状況下で、危険を顧みずに同行してくれた弟子のテモテに深い謝意を表している。弟子たちの中でもテモテは特に師:パウロと深い霊的つながりを持とうとしたクリスチャンであった。

彼はパウロと一緒に迫害や苦難に耐えてくれた弟子であった。→Ⅰテモ6:12/Ⅱ2:2~3/4:22

 ▼私が高校時代、通い始めた教会は賛美歌にある「村の小さな教会」のような教会だった。建物は戦前からのもので古く、しかも無牧の教会だった。二か月か三か月に一度、不定期で関西からやって来る年輩の宣教師の説教をみんなで聞いて礼拝するのだがこれが分からない。通常の聖日礼拝ではテープで短いラジオメッセージを聞いた。讃美歌を歌い、祈るだけの礼拝。だが当時求道心が強かった私は霊的満足を得ようとして、普段の日、この老人たちの若かりし日の信仰の体験談を聞く為、彼らの家をしばしば訪問した。10人程いた老人たちの殆どは、明治末期・大正生まれのキリスト者であった。彼らは若き日の山室軍平や石井十次、内村鑑三、賀川豊彦などと言ったそうそうたる明治・大正・昭和初期の説教者の説教を聞いたことがある人たちだった。

彼らの信仰体験談は迫力があった。そんな人たちの親、つまり明治初期の状況をクリスチャンから聞いて親切に教えてくれた人たちもいた。

 

▼文部省は、明治5年(1872年)学制を制定し、学校教育を開始した。政府は同年、師範学校を開設、東京師範学校に義務教育用の教科書を編纂させた。そして明治6年(1873年)文部省から「小学読本」が発行された。目的は日本を先進諸国並みの一流国にすることであった。そして、このようにして日本で生まれた最初の国定教科書の内容は、私たちクリスチャンを驚かさずにはおかない。例えば、国語教科書の一部を紹介しよう。こんな内容である。

「天津神は、太陽、月、地球を造り、のち、人、鳥、獣、魚、草木を造りて、人をして諸々(もろもろ)の支配をなさしめたり。」

 「神は万物を創造し、支配したもう絶対者なり。」これは、米国の教科書「ウィルソン・リーダー」を和訳したものだった。同時に、文部省唱歌には多くの讃美歌の曲が採用された。内閣が組織され、初代文部大臣には、熱心なクリスチャン、鹿児島の森有礼が任ぜられた。森は、日本をキリスト教国にすることを夢見ていた。

 

私はこの事実を知った時、血が沸き上がるような感動を心に覚えた。信仰の多くの大先輩たちがこの日本に沢山いたのだ。今、こういったことを教えてくれた方々ともっと交わりを蜜にしておけば良かったと反省している。彼らが伝えようとしたキリストにある人生の感動、愛、感謝を自分は受け継げたか?…と今思う。私自身、こうした信仰の大先輩方との霊的関わりを通して、彼らの人生の生き様や価値観というものに少なからず影響を受けて来たと思う。

 ▼エペソの教会はパウロによって始められた。最初のうちはキリストの愛に溢れ、宣教の情熱に燃える素晴らしい教会だった。だがパウロがエペソを去った後、すぐに狂暴な狼が入り込み、群れを荒らすようになった。聖書の教えとは異なる教えを解いたり、ああでもない、こうでもないと、自分を主張する人たちが出てきたのだ。それはあっと言う間に、教会の中に癌のように広がり、ある人たちの信仰をくつがえしてしまう程だった。しかしテモテは彼らとは違っていた。

 彼はパウロの教え、行動、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、そればかりか、アンテオケ、イコニオム、ルステラでパウロにふりかかった迫害や苦難にもしっかりとついて行ったのだ。彼がパウロの教えから離れることは最後までなかった。テモテがパウロという模範に見習ったからだ。

 終わりの日には困難な時代がやって来る。だがそんな中にあっても私たちは信仰に堅く立ち続けることができる。

秘訣は信仰の良い模範を見習うことによってである。

 ヘブル12:1「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

 いったいどうしたら目の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けることができるのか?それは多くの証人たちが、雲のように私たちを取り囲んでいるからだとヘブル書のは語っているのだ。私たちだけでなく、私たちの先に生きた多くの先人たちも同じような経験をしながら、忍耐をもって最後まで走り続けた。そのことを思うと強く励まされるのだ。テモテには困難があった。だが、彼がしっかりと歩むことができたのはパウロという素晴らしいお手本に従ったからなのだ。

 

▼明治9年、札幌農学校(現北海道大学)開校に伴い招聘された初代教頭、ウィリアム・スミス・クラークは、アメリカ合衆国の教育者であり、化学、植物学、動物学の教師であった。ボーイズ・ビー・アンビシャス(イン・クライスト)で有名なあの人である。彼は、自然科学の授業を終えると、学生達に聖書を配り、キリスト教についても熱心に講じた。後に学生たちは、「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教信仰に入る決心をした。門下生には、内村鑑三、新渡戸稲造、大島正健まさたけ(国語学者)、佐藤昌介(農学者/北大初代学長)などがいた。

 

―イエスを信ずる者の契約―

≪ここに署名する札幌農学校の職員学生は、キリストの命じるところに従いキリストを告白すること、および十字架の死により我らの罪をあがなわれた貴き救い主に愛と感謝を捧げる為にキリスト者としての全ての義務を真の忠誠をもって果たすことを願いつつ、また主の栄光の為、および主が代わって死に給うた人々の救いの為に、主の御国を人々の間に前進させることを熱望しつつ、ここに今より後、イエスの忠実なる弟子なるべきこと、および主の教えの文字と精神とに厳密に一致して生きるべきことを神に対し、また相互に対して厳粛に誓約する。更にふさわしい機会があればいつでも、試験、洗礼、入会の為、福音的教会に出向くことを約束する。

 我らは信ずる、聖書が人に対する神からの言葉による唯一の直接的啓示であり、来たるべき栄光の生に向けての唯一の完全で誤りのない手引きであることを。

 我らは信ずる、我らの慈悲深き創造主、我らの義なる至上の支配者でまた我らの最後の審判者である、唯一なる永遠の神を。

 我らは信ずる、心から悔い、そして神の子イエスへの信仰によって罪の赦しを得る全ての者は、生涯にわたり聖霊によって恵み豊かに導かれ、天の父の絶えざる御心によって守られ、ついにはあがなわれた聖徒の歓喜と希望とが備えられることを。

しかし福音の招きを拒むすべての者は自らの罪の中に死に、かつ永遠に主の御前から追放されねばならぬことを。

 我らは地上の生涯にいかなる変転があっても次の戒めを忘れず、これに従うことを約束する。

 あなたは、心を尽くし精神を尽くし力を尽くし思いを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい。また自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。

 あなたは、生物・無生物を問わず、いかなるものの彫像や肖像を崇拝してはならない。

 あなたは、主なるあなたの神の名を、いたずらに口にしてはならない。

 安息日を憶えてこれを聖く守りなさい。全ての不必要な労働を避け、その日を、できるだけ聖書の研究と自分および他の人の聖い生活への準備の為に捧げなさい。

 あなたは、あなたの両親および支配者に聞き従い、彼らを敬いなさい。

 あなたは、殺人、姦淫、不純、盗み、ごまかしをしてはならない。

 あなたは、隣り人に対して何の悪もしてはならない。

 絶えず祈りなさい。

 我らはお互いに助け合い、励まし合う為に、ここに「イエスを信ずる者」の名のもとに一つの共同体を構成する。そして聖書またはその他の宗教的書物や論文を読む為、話し合いの為、祈祷会の為に、我らが生活を共にする間は、毎週一回以上集会に出席することを固く約束する。

そして我らは心より願う、聖霊が明らかに我らの心の中にあって、我らの愛を励まし、我らの信仰を強め、救いに至らせる真理の知識に我らを導き下さることを。≫

 

 激しい困難の中にあってもテモテは同じような困難を通ったパウロをお手本に生きた。

 あらゆる国々の信仰の先輩たちによって体得されたキリスト信仰、キリストによる救いとは、いつも神のみ恵みの中に留まり続け、成長し、変えられ、

整えられていく。永遠の命につながる継続した信仰生活を自分のものとしよう。信仰の諸先輩たちが私に伝えようとしたことをしっかり受け止め、

その信仰を倣い、受け継ぎ、昇華し、また伝えていこう。

 ▼終わりの日が近いこの現代、私たちが信仰に堅く立って歩む為に必要なことは、これらの傑物を模範として見ならえ、手本とせよ!ということである。パウロがテモテに、神のしもべとして歩んできた自分に、3:11→「よくついて来てくれました」と心から感謝しているように。

Ⅰコリント11:1→「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」と言ったように、

キリストに見ならって生活している人たちを、自分の指導者とみなして生きることが大切なのだ。

 

III.  神のことば、聖書に習いなさいということである!

 「…聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」 ―3:15―

 ▼次にパウロは、聖書の教えが、私たちの人生を生きていく為の神からの最高の教えであることを語っている。

 人生を豊かにする為の様々な教え、戒め、更に人として成長して行く為の霊的訓練としてこの世に聖書以上に有益な書物はない。→1:13

 聖書の教えの中に留まるように、とパウロはテモテに現在進行形で語っている。神の恵みの中に留まり続けることの大切さを語っているのである。

 3:14→「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」

 テモテは、母と祖母から聖書を教えられていた。幼い頃からみことばに親しんできた人は、本当に強いと思う。

また大人になってから、聖書を読んだ人たちも、最初に聞いたみことば、また確信に至らせた主のみ教えに留まることが肝要だ。

 ▼聖書を読めば他の誰に教えられなくとも、キリスト・イエスに対する信仰による救いへと、人は導かれるようになっている。もしその他の読み方をしているのであれ ば、その人は何か他のものを信じていたり、自分の考えを聖書に押し付けているからであろう。

聖書に書かれてあることを幼子のように素直に受け止め、明らかにされたものを受け取っていく時、その人は救いへと導かれていく。

 3:16→「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」

 パウロは聖書そのものが教えることにここまで自信を持っていたのは、それが全て、神の霊感によるものであることを知っていたからだ。聖書は神の息が吹き込まれた世界でただ一つの神のことばなのだ。もちろん、人がそれを書いたのであるが、それを書くときに聖霊が動かして下さり、書かれたものは神のことばであり誤りがない。だから私は、聖書を教える時は権威をもって教える。これは誰かの意見ではなく、神のことばであり、絶対真理だからだ。

 「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。

この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているからです。」(Ⅰテサロニケ2:13)

 ▼聖書は神のことばである。ゆえに、有益なことが四つあるとパウロは言う。3:16→一つは「教え」である。聖書は最上の教育書である。そして、「戒め」。聖書は最高の心の法律書でもある。私たちは聖書に耳を傾けると、神の正しさを知るようになり、自分がいかに神の基準を満たしていないかを知る。そして「矯正」。聖書を学ぶ中で、己の欠けたところ、足りないところを知ったら、そんな自分のあり方を、神にある生き方に変える。方向転換、メタノイアである。そして、「義の訓練」。

これはいかに聖書の基準の中に自分を保って行くかである。

だから聖書は、その性質から対決型で書かれている。自分の今のあり方を捨てて、神のあり方を受け入れていくこと。これらが聖書が書かれた目的なのだ。

 そしてパウロは最後に、「それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」と言っている。私たちが良い働きをする為に必要なのは、ハウツー物を読み漁ることではない。聖書そのものなのだ。神のみことばが私たちを整え、良い働きをするにふさわしいものに整えてくれるのだ。

 

▼作家の三浦綾子が『わが青春に出会った本』の中で、最後に『聖書』を取り上げ、「ここでひとこと断っておかねばならない重要なことがある」と、

この本をまとめている。 以下、三浦さんの言葉である。(『わが青春に出会った本』p227

 「それは私にとって聖書は、他の本と同列に置くことのできない書物だということである。私は(ヘッセの)『デミアン』だの、(ジイドの)『田園交響楽』だの、(漱石の)『三四郎』だのを紹介してきたが、これらの本の一冊として、この聖書があるのではない。これらの本は私の人生にとって、正に出会いとも言うべき性質を持ってはいるが、しかしこれらの本に出会わなければ、私の一生はちがっていたというわけではない。極端にいうと、どの本に出会わなくても聖書に出会ったことで、私の人生は変わったと言える。聖書は虚無的で絶望的な生活を送っていた私を、真の実在であるキリストの神の前に引き出してくれた。

 キリストの愛が私の罪を知らしめ、十字架のあがないによらなければ、私の罪は赦されないことを教えてくれた。

そしてキリストが死んで三日目に甦ったことを知った。・・・虚無と絶望の日々は嘘のように過ぎ去り、・・・希望と平和の中に生きることができた。

このように私を変えたのは、聖書による信仰である。聖書のみが私に真の力を与えた本である。

・・・私を変えたこの聖書が多くの方の人生を、闇から光へ、不安から平安へ、絶望から希望へ変えてくれることを確信して、短い紹介を終えることにしたい。」

 

英語でThe Book(この本)と言えば、それは聖書を指している。“本の中の本”である聖書について、こんな話しを聞いたことがある。

「本」という漢字を逆さにすると何に見えるかご存知だろうか?…まるで開いた本の真ん中に十字架が立っているように見えないだろうか?

聖書を開くと、そこに十字架が見えてくるではないだろうか。

もうすぐ「灯火親しむべし」読書の秋、聖書をじっくり、たっぷり読みたいものである。

 

 

 

 

 

 

 

2019..19 第一礼拝 聖なる賜物! イザヤ書61章10節~11節

 

.信仰者と仕事について

  ――仕事は聖なる賜物/神は芸術家であり職人――

 聖書によれば“仕事”は、人に与えられた神からの聖なる賜物である(1:2628 。ただしこれは罪がこの世に入り込む以前の見解である…。その後、この世界に罪が入り込んで来たことにより、仕事は、楽しいものから、苦痛とフラストレーション(欲求不満)を伴うものとなった(3:1719)。

 私たちの神は、“創造者”と呼ばれるお方である。“クリエーター”、…ニュアンスが少し違うとは思うが、“メーカー(生産者)”でもあるお方である。つまり聖書の神は、日本語的に言えば「職人」…、それも「聖なる職人」なのだ。  神は、天と地を「造られ」「分けられ」「整えられ」「設け」「定め」「建て」「植え」「動かす」お方である(1:727/詩篇65913)。神はご自身に似せて私たち人間を造られたことを創世記は教えている。だから、本来仕事は、人への神からの聖なる賜物なのである。

  ――聖なる労働者イエス――

 ▼主イエスとて同じであった。イエスは弟子達と漁に出て共に漁をなさったし、畑を耕し、小麦や大麦の収穫時には、刈り入れや脱穀、精米も手伝われたはずだ。イエスはこの世では、聖なる労働者であられた。主は、生涯の大部分を説教に費やす以上に、のこぎりやトンカチを振るわれた時間に費やされたのだ。そして覚えたいことは、今も主は天において、私たちを迎える為、仕事をなさっているということだ。

“イエスの譬話”は労働者の“仕事”を扱ったものが殆どであることに気づかされる。「種撒く人」、「ブドウ畑の労働者」、「農夫たち」、「家を建てる職人」、「漁師たち」、「主婦」…etc…。イエスはこれら、ご自分の周辺に働く労働者の“仕事ぶり”を引き合いに出しながら、神の国の福音を説かれた。つまり、主は労働者の仕事ぶりに人一倍関心を寄せられていたのである。感謝なことである。

 パウロについても同じである。彼はあまり冴えない“テント職人”として真面目に働いた。彼は手紙の中で、周囲の人々を支える為に積極的に働くことを勧めている。パウロもまた労働を重んじた人だったのである。

  盗みをしている者は、もう盗んではいけません。

  むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。エペソ4:28

 ▼ルーテルやティンダルを初めとした宗教改革者たちは、”万人祭司制”を強調した。”万人祭司”を一言で言えば、人が行う(不道徳的なものを除く)全ての仕事は神と人への尊い奉仕であることを意味する。ルーテルは、「日々の労働は神の前に尊いものである!」として仕事を強調した神学者であった。英国の宗教改革者、ウィリアム・ティンダルも日記にはこのようにある。――「神を喜ばせるのに、他より勝っている仕事というものはない。たとい水汲みであろうと、皿洗いであろうと、靴磨きであろうと、…それらはみな一つ、尊い賜物なのだ。」―― 

 ①人間に委ねられた(不道徳なものを除く)あらゆる仕事は、神がお与えになった良いものであるとの仕事観を持つことは重要である。私たちは日々の労働を通して、地球上の様々な場所を管理、世話し、人間同士、互いに仕え合うようにと神によって造られた存在なのだ。…たとえ罪が、私たちの仕事の過程に“痛みと失望”を引き起こしたとしても、それ自体が神と世界を称えているという基本性格を失うものではない。

 ②人は自分に与えられた仕事を通して、現時点において、“天職”として受け取り、それによって人として成長し、

神を称える為に霊的に引き上げて行くよう信じて励むことが大切だ。

 「仕事の神学」なるものはこう教える。――「人は働くとき、物や社会を変えているだけではない。己自身がその働きを通して発展していることを忘れてはならない。人はそれを通して多くを学び、それにより自分の賜物を引き上げ、己を超えて前に進むのである。これを正しく理解することは、富を得るに勝る価値あることなのである。」――

 

.信仰者と芸術について

 ノアの大洪水後、神は二度とこの世界を水で滅ぼさないことを約束され、印を下さった。注目すべきはその印は、岩に刻まれた碑文ではなかったし、ヘラで刻み込まれた灰色の粘土版でもなかった。その“契約の印”は、空に架けられた美しい“アーチ状の虹”だった(創世9:12~15)。

神の思いは虹だけにあらず。朝日や夕日を通しても現された。神は朝な夕な、空をキャンバスにして絵を描かれ、今も、世界中のどの美術館よりも多くの観客を集めている。

 私たち人間は、この素晴らしい創造主に似せて造られたクリエーター、またメーカー的存在である。だから、今なお様々なイマジネーションを働かせ、新しいモノを様々な分野で製造する。歌を詠んだり、歌ったり、絵を描いては鑑賞し、布に織り、着て喜ぶ。イマジネーションが生み出す小説を書いて、読んで感情移入する…、といった具合だ…。こうして、人は互いの人生を精神的に豊かにするのである。

 ▼このように創り出し想像力を豊かに働かせることもまた神の賜物なのだ。料理を工夫する。味付けを施し、飾りたて、眺め、舌で転がしつつ食感を楽しむことができるのは人間だけの特権だ。服を作り、好みで選び、装い、満足感を得る。家のインテリアなどの工夫も同じだ。

このように、アートと想像力は、神から私たちに付与された賜物なのだ。

み霊に満たされたベツァルエルやオホリアブといった職人たちは、まさにアーティストだった(出エジ29:31~35)。

 だがこれらの芸術性もまた、罪の侵入以後、的外れの世界に移行した。だから正しい状態に戻すにはベツァルエルやオホリアブのように、キリストの十字架の罪の贖いによる力と、聖霊の満たしが不可欠なのである。キリストの十字架の贖いのみが、全ての罪から全てのものを清め分かつのである。

 …ご自分の肉において、敵意(罪)を廃棄された方です。

 …このことは、二つのものをご自身において新しい一人の人に造り上げて、平和を実現する為であり、また、両者を一つの体として、

 十字架によって神と和解させる為なのです。敵意(罪)は十字架によって葬り去られました。 エペソ2:15~16

.信仰者と食・会話について

 

 食べ物もただ腹を満たすだけのものではない。十分に食べ物があれば人はおのずとおいしい料理を求め、その歯触り、味、色合い、香りを楽しむ。料理は私たちに喜びを与えてくれるものだからだ。そのような料理には技術と想像力が必要とされる。世界のどの文化でも、お祝い事といえばたいていごちそうの時で、人々は時間をかけて料理する。味を付け、蒸し、焼き、煮て美味しく素材の風味を楽しみながら食べるのは人間だけだ。つまり私たちは空腹を満たすからといって味気ない食物では満足せず、この世界に生きていて“嬉しい・楽しい”と感じさせるような色、味、香りの喜びを求めて生きているのだ。だがしかしこれもまたやり過ぎの場合があるから注意が必要である

  …あなた方は、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わす為にしなさい。

  …つまずきを与えないようにしなさい。 Ⅰコリ10:31~32

 世界には、貧困ラインを下回り、飢えている人が多くいる。にも拘わらず、先進国では肥満が問題となっている。食事を楽しむことは大切だ。だが、これも神の栄光を現わす為に成されるべきであることを聖書は教えている。カルヴアンは語っている。

――「神は何のために食べ物を造られたのか。それは、私たちの空腹を満たそうとされただけではなく、私たちの喜びと楽しみのためでもあった。ハーブ、樹木(じゅもく)、また果物(くだもの)には、様々な用途があるが、それに加えて、私たちの目をその“美しさ”で喜ばせ、また私たちの心をその“香り”で楽しませて下さるのが主の御旨なのだ。

…神は、必要なことだけでなく、それを超えた多くの美しいものを与えて下さったからである。」――

 創18:1~9→アブラハムは天幕の中にいた妻のサラに、訪ねて来た神からの客人に御馳走をした。素晴らしい料理であったことが文面から推察できる。ヨセフが父や兄たちをエジプトに呼び寄せた時、エジプト王パロはこう言った。45:18→「…私はあなた方にエジプトの最良の地を与え、地の最も良いものを食べさせる。」

 ――品と質の良い会話を!――

 話すことばでも芸術性が求められている。単調に話し続けるのか、それとも抑揚を考えて、生き生きと話すか…。同じ単語を繰り返し使っていないか?…現代社会これほど汚い言葉が広がったのは、人々が情感なり強調を豊かに表す言葉を使わなくなったからだ、とある言語学者たちは考えている。大切なことは、服装であろうと、料理であろうと、言葉遣いであろうと…、何をするにせよ私たちは想像力が豊かで、センス良く、喜びに満ちた被造物として生きることを神が求めておられるということを知ることである。そんな生き方をしていくように心掛ける人の人生に神の祝福が伴うのは必然である。

 ▼私たちは神からの賜物を神と人の為に精一杯磨きながら人生を歩むべきだということだ。神は、私たちを神ご自身に似せて造られた。私たちが絵画や音楽、彫刻や小説、写真や建築、センスの良い服の組み合わせやおいしい料理、知恵ある言葉や気のきいた会話、そういったものを生み出したがるのはその理由による。そのようなセンスある生き方をもって主の御名を崇められたらどんなに幸いだろう

Ⅰテモ4:12/テト2:8/イザヤ61:10~11

 

 .仕事と遊びについて

 「遊びはクリスチャンにとって“崇高な召し”の一つである。」と語れば、抵抗を感じるクリスチャンも少なくないだろう。

私たちの生活に、かける時間の多くは、何かを生産したり、何かを変えたりすることに使われるが、“遊び”はそうではない。

“遊び”は、ただ神の造られたこの素晴らしい世界にくつろぎ、神との平和を楽しむひとときであるからだ。

 これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ(遊び)喜ぼう 詩篇118:24

 都の広場は、男の子と女の子で一杯になる。子供たちはその広場で遊ぶ ゼカリヤ8:5

 学生は“勉強”を仕事とし、社会人はそれぞれの職場で仕事をこなし、主婦は家事に専念する。…それで、その為には体を休ませる必要があるのだが、もうひとつ重要なことがある。それは、人には(*もちろん、それは良質のものであるべきであるが)“遊び”が必要であるという点である。遊びは休息の一種である。遊びは、時に激しいスポーツやゲームである場合がある。サッカー、スイミング、碁や将棋などは、体や頭をフル回転し、終わった時には、クタクタに疲れ切ってしまうが、不思議に内側には、生き返ったようなすがすがしさを感じるのだ。すごく疲れる。

だが爽やかに終われるのはなぜか?答えは、それが仕事によるものではないからだ。だからリフレッシュでき明日へのチャレンジに向かえるのだ。だから、遊びは休息の一つなのである。

 “仕事”と“遊び”の境界線はぼやけている。なぜならある人にとっての遊びは、他の人にとっては仕事となるからだ。例えば、登山は、山岳救助隊員にとってハードな“仕事”であるが、ある人々にとっては、楽しい“遊び”となる。農夫は生活の為に汗して畑を耕すが、別の人は手を真っ黒にしながら菜園を作り楽しみつつクワをふるう。漁師たちは、命がけで魚を取るが、釣り人にとって、魚釣りは楽しい遊び以外の何ものでもない。

つまり、“仕事”と“休み”、“仕事”と“遊び”の違いは、こちら側の“心持ち”次第なのだ。 

――遊びとは?――

 遊びとは、「理由もなくすること」である。この社会では、成すべき仕事が非常に多いし、その上冷酷で残酷なノルマの下で苦しまねばならない。だから休息と遊びというものは、人生を生きる上で非常に重要なものとなる。 この世界には、厳しい状況に置かれている人たちが沢山いる。だがそんな困難な状況に置かれている彼らでさえ、可能な時には“遊ぶ”ことを心得ている。かつて、シベリア抑留者たちが獄寒の地で過酷な状況の中で耐えられたのは、石ころを駒に変えた将棋で、懐かしい唱歌を思い出し歌い合ながら生き抜いたという話を聞いたことがある。

人は、遊び心で、人生を活性化させることができるのである。イエス様でさえ、地面に何かを書かれる遊び心を持ったお方であった。

 遊びにはその時気づけない多くの利点がある。遊びは、心と体をリフレッシュさせ、脂肪を削(そ)いで健康にし、仲間との絆を深め合う力がある。子供たちは遊びながら育っていく。我々も、そうだった。

 ▼「最高の人生の見つけ方」というハリウッド映画がある。「人生の全てを“家庭”に捧げてきた“大真面目な主婦”と、人生の全てを“仕事”に捧げてきた“大金持ちの女社長”。価値観が絶対的に違う、また絶対に出会うはずもない二人が病院で出会った。…“余命宣告”を受けた二人がたまたま手にした、同じ病院に入院する12歳の少女の“死ぬまでにやりたいことリスト”…。二人はこのリストの中の全てを実行するという“あり得ない決断”をする。今までの自分であれば、“絶対にやらないこと”も、自らの“殻”を破って初体験。リストの一つにあったスカイダイビングに二人は挑戦することに。。。そうすることで、今まで気付かなかった“生きる楽しさ”と“幸せ”に出会えた二人には、ある奇跡が待っていた――。

「あなたの(遊び心の)せいで、残りの人生楽しくなるなんて」という言葉から、どんなときでも人生を幸せに変えられるメッセージが伝わってくる。」 遊びは馬鹿にならないものなのだ。

 毎日毎日、私はそこで遊んでいた。

 神の御顔の前で、いつも遊び回っていた。

 神の造られた地上でくまなく遊び、

 すべての人々と楽しんだ。 箴言8:30~31/ 

かつて「祝い(遊び)」のムードは、イスラエル人の生活に溢れていた。それは、什一献金にさえ現れていた。什一献金が、遊びやお祝いと結びつくとは考えにくいかも知れないが、当時のイスラエル人の什一献金の全てが、常に神殿(今の教会)に捧げられたわけではない。ある年には、神殿に仕えていたレビ人の所に持っていかれた。そして三年目には、次のようにされたとある。

 第三年目の十分の一を納める年に、あなたの収穫の十分の一を全部納め終わり、これをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えて、

 彼らがあなたの町囲みのうちで食べて満ち足り… 申命26:12~13/同14:28~29

 これらの命令によれば十分の一献金は、困窮している人々、そして外国人にさえも与えられた。

 捧げものを捧げる場所が遠い場合には、神は次のように言われている。→申命14:24~27

 「捧げものを捧げる場所が遠過ぎる場合、山羊や羊、鳥また穀物を、山を越え砂漠を渡って持って行くのは大変なので、

 動物や穀物を売って、運びやすいお金に換えて持って来なさい。

 そして、その場に着いたら、飲み食いのために何でも好きなものを買って、家族と共にお祝いし、それをレビ人とも分かち合いなさい。」

 ここで神の民は、什一献金の一部を使って飲み食いをし、楽しむようにと命じられているのである。何とここでは、この時十分の一が、パーティーの為に用いられていたのである。

 ▼三年ごとに、什一献金はとびきり上等の祭りの為に使われた。イスラエルには、七週の祭り、仮庵の祭り、刈り入れの祭りという三大祭りがあったが、今日のキリスト教会は、聖書の祭りを自分たちの祭りと結びつけていないように思う。何か別の「霊的」な世界のことを語っていると思っているからではないのか?しかし、主の祭りの日、彼らは、イスラエルは主に命じられたとおり、思いっきり飲み食いしたのだ。

 もちろん、全ての祭りが豪華なパーティーだったわけではない。あるものは意図的に禁欲的だった。断食をしたり、特別な制限された食べ物を食べたり、時には苦いものも食べた(*たとえば、過ぎ越しの祭り、種なしパンの祭り、贖罪の日など)。しかし、基本的に祭りは“祝賀パーティー”であって、にぎやかなお祝いがなされた。お祝い(パーティー)とは“遊び”なのであった。イスラエル人の生活は、倹約ばかりであって、最低限必要なもの以外には出費しないという退屈なものではなかったのだ。ちょうど仕事と休みのリズムのように、それは生活のリズムだった。

 彼らは、普段は質素な生活を送っていたし、貧しい人々、困窮している人々と物を分かち合い、そのような人々の借金を免除するよう神に命じられていた。しかし、祭りは盛大にやった。

 主イエスの場合も同じである。神の御旨に従って、持っていたものの十分の一を取り、時には一週間を通して祝った。彼らの生活は全てが遊びではなく、全てが休みでもなく、全てが仕事でもなかった。彼らの生活には、遊びも、休みも、仕事もあって、それら全てが神の御前に、神に従うがゆえに、神への感謝をもってなされたのである。

 

これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。」詩篇118:24

 

 

 

2019.2.10 第一礼拝   成熟せよ、本物となれ ― ヤコブ1:1~4 ―

 

ヤコブ1:1 神と主イエス・キリストのしもべヤコブが、国外に散っている十二の部族へあいさつを送ります。

 

このヤコブ書は講堂書簡のトップバッターであり、一つ前のへブル人への手紙に書かれているクリスチャンの指針をより具体的に示している。

記者であるヤコブはイエス・キリストの父ヨセフと母マリアから生まれたキリストの兄弟であり、エルサレム教会の指導者として活躍した人物だった。 

 

使徒15:13~ 二人(バルバナとパウロ)が話し終えると、ヤコブがこう言った。・・・ 

 

ガラテヤ1:19 主の兄弟ヤコブは別として・・・

 

ガラテヤ2:9 柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、・・・                                                               

 

しかし最初からクリスチャンだったわけではなく、イエス・キリストと何十年も生活をともにしていたにもかかわらず、長い間、彼はイエスを神と信じていなかったのだ。

 

  ヨハネ7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

 

ではいつからイエスをキリストとして信じたのか? 

 

  I コリント15:4~7  ~ その後、キリストはヤコブに現れ、それから使徒たち全部に現れました。

 

疑い深いヤコブは復活のイエス・キリストに出会うことによって、本物のクリスチャンに変えられていった。

 

「神と主イエス・キリストのしもべ」ヤコブ とあるようにキリストの実兄弟であることも、エルサレム教会の指導者であることも誇ることなく、

 

謙虚に自分をキリストのしもべ = 最下級の奴隷 と記している。

 

 

 

 そのヤコブから、今ローマ帝国からの激しい迫害を受けているクリスチャンたちに呼びかけているのだ。

 

  ヤコブ1:2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上ない喜びと思いなさい。

 

それはないんじゃない? 言いすぎじゃあ? と思われるだろうか?

 

想像を絶する迫害の中にあったクリスチャンたちにとって、このヤコブの励ましは砂漠で生き絶え絶えになっている人にとってのオアシスと同様この上ないなぐさめ、生きる力となったにちがいない。

 

また、ここには「もし」という言葉は使われてはいない。人は必ず大なり小なり試練に会うのだ。

 

  ヤコブ1:3~4 信仰が試されると忍耐が生じるということをあなたがたは知っているからです。

 

      その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、

 

成長を遂げた、完全な者となります。

 

  ヤコブ5:11 見なさい。耐え忍んだ人は幸いであると私たちは考えます。

 

あなたがたはヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。

 

主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。

 

主はあらしの中からヨブに答えられたように、私たちが試練に会う時も、常に私たちとともにおられるインマヌエルの神である。このイエス・キリストをしっかり見上げて力をいただき、神を愛する者に約束された、いのちの冠をいただくために互いに励ましあって成長していきたいものである。

 

 

 

祝福された人間関係! ~道標より~

 

◇愛に満ちた人間関係

 今日、聖書による宗教教育は必要でしょうか? 無論、答えは ”然り” です。

 カーネギー工科大学で、一万人の社会的に成功した人々についてその原因を調べたところ、

能力があって成功した人はわずかに15%で、対人関係を築く能力が優れているために成功した人が実に85%であった

という報告をして、人々を驚かせました。

また他の研究機関からは、ある年に解雇された4000人の人々のうち能力がなくて解雇された者はわずか10%であるのに対し、対人関係に問題があって解雇された者はなんと90%に達しているとの報告がされています。

これほど人間関係が大きな比重を占めているのに、多くの家庭では子供を少しでも”成績の良い学校”に入れようとして、

友人とも遊ばせず、勉強や習い事ばかりさせています。

それは正しいことではありません。 

 聖書は正しい人間関係、愛に満ちた人間関係を教えています。

”愛” という言葉が聖書の中には溢れています。 ”神は愛なり” です。 

神を信じ神(イエス・キリスト)を友とされるなら、あなたには愛に満ちた人間関係を必ずや身に着けられることでしょう。

教会は魂の救いの場であると同時にまた聖書教育の場でもあるのです。

 

◇前向きの人間関係

 

 現代は他人との関係どころか、親子の人間関係すら育っていない家庭が増えていると言われます。

このような家庭環境で育った子供たちがいろいろな事件を起こすケースが多くみられます。

また、家庭における夫婦間の問題も悪化の一途をたどっています。

アメリカでは18歳以下の子供の4人に1人が片親家庭。 子供たちの6割は成人するまでにどこかの時点で親の別居、離婚など

片親だけの生活を体験している、こんな統計結果も発表されています。

同じくアメリカでは平均して1日に4人の妻が夫の暴力によって殺害されている、との調査報告もでています。

 日本でも今日、”アダルトチルドレン”なる恐ろしい言葉が定着しています。

「誰も愛せない。夫、妻、子供と心が通わせない。結婚するのが恐ろしい。恐ろしくて子供が産めない。産んでも育てられない。

生きていくのが怖い、、、」 ”大人になり切れない大人”が増えているというのです。

 マイナス思考ではなく、今こそ聖書教育によって私たちは真の”プラス思考積極型人間”へと変えていただく必要があるのではないでしょうか。

 

◇勝利の人間関係

 

 聖書はあなたの今日からの人生を”勝利の人生”へと変えてくれるのです。

今までのあなたのどんな失敗も挫折も、これからの人生の肥料として神様は用いて下さいます。

聖書の中には多くの人物の伝記物語が記されていますが、神を信じて生きた人は例外なしに勝利を得ています。

アブラハム、ヨセフ、ダビデ、ソロモン、パウロ、、、、

聖書の中には3573つの祝福の約束が記されています。聖書を学ぶ人、そして信じる人は必ず神による祝福に満ちた人生を送ることができるのです。

イギリスの誇る詩人テニソンは次のように述べています。

「聖書を読むこと、そのことこそが真の教育なのである」

 

神のみことばにより真に祝福された人間関係に生きる人にあなたもなれるのです。

 

 

 

 

2018..1  元旦礼拝 主なる神を第一として! 詩篇127:1~5  

 

  

 

.焦る必要はない。慌てる必要もない。ただ主を見て生きる!

 

主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。

あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。

主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。   詩127:1~2

 

 作者はソロモンのようだが、直接的にソロモン自身の体験であったか、彼の師の教えか、彼の友人の体験であったか分からない。それはともかく、

彼は生きるために、一生懸命朝から晩まで寝食も惜しんで働いて来た人だったようだ。人生の目的は何だろう? 結婚、子供、家庭、

仕事での成功? 素敵な人と結婚し、子供が生まれ、一家を支える者となり、家を構え、やがて町の有力者となり、評判の人物となること、、、

 

日本人に似てイスラエル人は勤勉だ。しかし、いくら勤勉で寝る間も惜しんで働き、財を成しても、結局は、神様ご自身がその人の家を建て、

その人の町を守って下さるのでなければ、その苦労も空しいものなのだと聖書は教えている。

 

2節→「あなた方が早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それは空しい」

朝早く起きて働き、夜遅くまで夜なべをしながら働いて、生活の糧を得ても、それは空しいことだ」と言っている。

 

この人は、朝早く起きて夜は遅くまで仕事をしてきたのだ。彼は、一体いつ眠るのか?人はそのような人を称賛する。

 「日本人ならば、身を粉にして働いてきた先人たちを尊敬するべきだ。彼らはこんなに犠牲を払い、不眠不休で彼らは偉業を成し遂げたのだ。

この人たちこそ誇れる日本人なのだ!」…だが聖書は言う。

 

「主が家(あなた)を建てるのでなければ、家(あなたと家庭と教会)を建てる者の働き(労苦)はむなしい。

主が町(あなたの家庭)を守るのでなければ、守る者の見張りは空しい。

あなた方が早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦(焦慮して<あせって>の糧を食べるのも、それはむなしい。

主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えて下さる。」

 

たとえ努力が実って財を、栄誉を、名を上げたとしても、神様を第一とし、

神様が自分の生活を仕事を家を支えて養って下さるという神信仰・十字架と復活信仰がない限り、人生は空しいのだと断言している。

 

今日のように、不況でアルバイトを何件もこなさなければ生きて行くことができない時代であっても、やはり神を第一とし、

神が自分の生活を、仕事を家を支えて養って下さるという信仰がない限り、その人の人生は空しい、聖書はそう教えている。

 

 

 

Ⅱ.主御自身が建てて下さることを信じて歩む!

 

1節→敵から身を守るために、いくら立派な門を造り外壁を築いても、またどんなセキュリテイ―をつけたとしても、主ご自身が町を守って下さるのでなければ、敵(サタンと悪霊ども)の侵入と攻撃に耐えることはできないと言う。これを逆に読めば、「たとえ、町の防備が貧弱であ@ZJHの町は“難攻不落”の要塞同然、絶対に侵入されることはない」ということである。またたとえ、どんなに力がなく、資金がなくとも、主がこの家を建てようと決断されさえするなら、その家は絶対に必ず建つ(繁栄する)。まず、神ご自身が家を建てる、神様ご自身が家を守るというご決断をして下さらない限り、私たちは何もできないのだ。

 

だから何をするにしても、まず主がそのように“ご決断”されているのか?もしかしたら“自分の願い”“願望”だけで物事を押し進めているのではないだろうかということを私たちは反省してみる必要がある。

 

主なる神様を先頭にしなければ家も教会も建ちません。即ち、神様を第一として進んで行かなければ、家も町も教会も敵に侵略されてしまう。それは歴史を見ても分かる。

 

 神様を第一にする、そして神様に従うことを“人生の目的”とする。その為には何よりもまず祈りが大事だ。祈るごとに、主が自分に何をせよと言っているのが聞こえてくるような気がする。祈りとは、何よりも主御自身を求めることではないだろうか?これこそが私たちの人生の、そして信仰生活の目標でありゴールなのではないかと思う。

 

私は一つの事を主に願った。私はそれを求めている。

私の命の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、その為に。詩27:4   

 

「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はおられるからだ。」 常に主を第一とし、何事においても、主が良しとされるところを歩む。そのために、まず祈りの中で、御言葉を通して主の御心を常に求めて行こうではないか。

 

 

 

Ⅲ.胎の実は報いである

 

最後に、このように主を第一として歩んだ家族が、どのような結果、どのような報酬を受けるかが記されている。

 

見よ、子供たちは主の賜物、胎の実は報酬である。… 詩127:4~5

 

主を第一として歩んだ家は、多くの子供(人生の実/繁栄)をいただくということである。「胎の実」ですから、この家の奥さんは妊娠しているということになる。そして、その子供たちが、今度は親を支えて勇敢に戦ってくれる勇士となって敵と戦ってくれるようになるというのだ。

 

これを教会に当てはめて言うと、次々と霊の子供が誕生するということである。

次々とバプテスマが与えられて新生児が生まれることを意味している。

生まれたばかりの霊の子供、そしてまたお母さんのお腹には出産を待っている次の求道者がいるということである。

 

これが霊的に祝福された家族の姿なのだ。子供の出産も子育ても大変だが、それが神様の祝福された教会の姿ではないだろうか。

そして、同じような情景が詩128:3~6にも記されている。

 

あなたの妻は家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。… 詩編128:3

 

教会の家の中には、新しく生まれた霊の子供たちがいっぱいいて、霊の糧である御言葉のミルクをたっぷりと飲んでいる。

そして教会の家の中は、子供や孫やひ孫でごった返すようになると言っている。

 

霊の子供を産む妻は誰か。霊の子育て中のお母さんは誰か。赤ちゃんにおしめを変えたり、ミルクを飲ませたりするのは大変だ。

やっと子育てが終わったと思ったら、二番目の子供が。一人っ子ではないから、お母さんも大変だ。大家族は何人も子供がおり、

お腹を大きくしながら、子育てをしなければならないかもしれない。

でもそれが主に祝福された家族なのだ。主御自身を第一とし、主がまず家を建てて下さることを信じ願っている教会の姿なのである。

 

  あくせく働いて、いつもいがみ合って暮らしている家庭になってはいけない。それはいつの間にか自分が主人になっているのである。

そんな家はどんなに立派な建物でも、空しい。

やがて崩れてしまう。主を第一として、主にいつも寄りすがって行かなければ、どんなに強固な城壁を築いても、たちまちのうちに崩れてしまうのだ。

 

 今年、何よりも主ご自身を第一としよう。主を求めよう。そのためにも、新しいこの2018年、心を一つにして共に祈っていこう。

 

どんな時にも神様の御言葉を求め、これに従いこれに教えられて行くことを願おう。

そこにこそ、私たちの人生の目的があり、祝福の源がある。

 

 

…あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。 Ⅰコリ10:31

なぜなら万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、王座も、主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。

万物は御子によって造られ、御子の為に造られたのです。

御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。   コロサイ1:16~17

 

 

 

 

 

 

2017.9.24 ― ギデオンの祭壇~アドナイ・シャロム!  士師記6:11~24

 

Ⅰ.「勇者よ、主があなたと一緒におられる。」この言葉がみ使いによるギデオンへの第一声であったことを覚えたい!

 

さて、主の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下に座った。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の使いが彼に現われて言った。『勇士よ。主があなたといっしょにおられる。』 士師記6:11~12

 

 ギデオンは、他のイスラエル人たちと同様にまるでいなごの大群のように大勢でやって来ては略奪する恐るべき敵、ミデヤン人やアマレク人たちを恐れて、酒ぶねの中に隠れてこっそりと小麦を打っていた。この時イスラエルの民は、これら「荒らす憎むべきものたち」である“異教の民”に立ち向かうことをせず、恐れて逃げ惑いながら野や山や洞穴などで暮らしていた。

   ここには出エジプト時に見られた果敢なあのたくましいイスラエルの民の姿はみじんもない。

   信仰の機能不全状態に陥り、臆病風に吹き回され、影がすっかり薄くなってしまった一人の人間に目を止めて神は何と言われたか?… 「勇士よ!」である。 主はこの臆病な男にそう呼びかけて下さったのだ。

 

  この御使いのことばに違和感を感じる人は少なくないと思う。このことばがギデオンに向けられた第一声だったのだから。 

 ギデオンはこの時、果たして「勇士」だったか?…「勇士」=「魅力的で雄々しく戦う人、勇敢な兵士」という意味を持つ。

 キリストによって救われた私たちを、たとえ私たちがどうであろうとキリストは、ひたむきにご自身の束を果たそうと愛して下さるお方

 なのだ。

   神の賜物と召命とは変わることがありません。ローマ1:29

 

 ところで、なぜみ使いはこのことばをギデオンに投げかけなければなかったのか? それほどにギデオンはこの時、落胆し、

 気弱で、貧しくなっていたからである。神様は6章に書かれている状況を全てよくご存知であった。

 なぜなら神は、私たちの心よりも大きく(認めて、理解しておられる)、

 そして何もかもご存知だ(神に隠されているものは何もない)からです。 Ⅰヨハネ3:20

 

 モーセの場合も似ていた。一介の羊飼いに落ちぶれて40年…、もう先も望めなくなってしまった社会的弱者であったこの老人を

「燃えても絶対に焼け尽きない柴」の風景を彼に見させて、用いる為に選んで下さったのではなかったか(出エジプト3:1~6)

 キリストは、無力な者、年をとって、いかに落ちぶれても、枯れ木のようになって何もできなくなった者にでも、

 その者の所にまで下りて来られて、「勇士よ、私があなたと一緒にいる」、とことばをかけて下さるのだ。

   正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

  しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、

  神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 ローマ5-7、8

 

 

Ⅱ.ギデオンの言い訳に学ぶ三つのこと!

 

 

 

  1.「なぜ=Why」 という言葉に見られる不信仰!

 

 「なぜ/Whyというのは、今置かれている危機的状況の結果の原因、を探している言葉だ。自分が今こんなになってしまったのは、

 誰か(何か)のせいだ。親のせい? 上司のせい? 信仰をもったせい,,,

   ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょおられるなら、なぜこれらのことがみな、

  私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、

  私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか?今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」

   士師記6:13

 

彼は、私たちは選ばれ救われた民なのに、なぜミデヤン人やアマレク人たちに圧迫され、畑は荒され放題、食べる物もなくなって、こんなに惨めな生活を強いられなければならないのか?あの“出エジプトの神”はどこに行っていまわれたのか?…しまいには、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか?今、主は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」と、神に食ってかかっている始末である。…これまでの自分たちの今の不幸な状況は、全部神のせいだと言わんばかりの態度である。 

 「なぜ/Whyという不信仰は、しばしばこのような言葉を神に対して平気で吐くのである。これはエデンの園におけるサタンの言葉と

 同じである。

  …神様は、こんな自分のような者を選んで救って下さり、深い愛を注いで下さった。 

 私の場合、伝道者として魂の救いの業をずっと43年も委ねて下さり、常に牧会の最前線で自分を助け導いて下さった。

 にも拘わらず、状況が少しうまく行かなくなると、神様に対して平気で悪口雑言を投げ返してしまう。それが私である。

 「わたしはあなたに天の御国の鍵を上げます。…」マタ16:19私に、そしてあなたに、「あなたは勇士だ!」と言って下さっている

 キリスト。

 み使いはギデオンに、「…あなたのその力で行き…」6:14と言っている。私たちはすでにその力を持っているということだ。

 私たちは、イエス・キリストの十字架によって救われた。十字架以上に力あるものはこの世界にはない。

 救いを経験しているのであれば、あなたは立ち上がらなければならいはずだ。

 

 

 

  2.「どうすれば=How」 という言葉に見られる不信仰!

 

 二番目の不信仰は、「どのようにして…。」「どうすれば…」6:15という問いである。イスラエルの民の救い方についてである。

 ギデオンは自分の信仰と力のなさを感じて神にこう言い訳したのである。

  「ああ、主よ、私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存知のように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、

  私は父の家で一番若い(一番年下の者)のです。」 士師記6:15

 

 これに対して神は、「私はあなたと一緒にいる!」。(6:16) だからあなたは悪魔にも、悪霊どもにも必ず勝利する!

 これが答えなのだ。この事実こそが私たちの持つ最大の武器なのだ。救われるのは主御自身である。

 主がいなければ勝てない勝負なのだ。そうでなければ一人として救いは起こり得ない。

 「…信仰が持てたら従うべきだ。ゲッセマネにでもカルバリにでも、主の御手うちにあれば、わたしにもできます。

  どうぞ使って下さいませ。主のそばで何になりと主こそ私たちの力、救いの源である。万軍の主なる神が一緒に働いて、

  救いを成し遂げて下さる。これが魂を勝ち取る方法である。主と共にいること、これが全ての力の源泉である。

  ただ主の御声に従って、進み行けばいい。

 

  3.「もし=If」という言葉に見られる不信仰!

 

三番目のギデオンの不信仰は、「もし」という不信仰を彼が有していたということである。このみ使いは本当に神から来たのか?神がこんな自分を選ぶなんて信じられなかったのだ。彼は神が本物かどうか、本当におられるのかどうか試して確かめようとしたのである。

 「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちにおこったのでしょうか。…

  …お願いです。私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せて下さい。どうか、私が贈り物を持ってきて、

  あなたのところに戻り、み前にそれを供えるまで、ここを離れないで下さい。それで、… 士師記6:13/6:17~19

 

 これらギデオンの一連の不信仰が取り去られるには、ある一つの彼の手によるある行為が必要であった。その行為とは、神への礼拝(6:18~20)であった。

  そしてこの時初めて、彼はみ使いが神の使いであることが理解できたのである。ようやく彼の霊の眼が開かれたのだった。

 「そこで、…そこに主の祭壇を築いた。…これで、この方が主の使いであったことが分かった。それでギデオンは言った。

  『ああ、神主よ…』」(22~24)

 

あなたもギデオンようにして神様を試したことはないか?不信仰な行為に対しても、神様は誠実に答えて下さるお方だ。

神様から「勇者よ。」という召しを受けたがどうしても自信がない、信じられない、不安だと思う方はぜひ神様に尋ねてみて欲しい。

本当にあなたがわたしを勇士として、士師として選ばれたのなら何かしるしを見せて下さいと。

  ギデオンの霊的な目が開かれて、この御使いが本当に神からの使いであると悟った瞬間に、このみ使いの姿は消えてなくなった

 (6:21)。これは、あのエマオ途上での二人の弟子の姿に似ている。あの新約の二人の弟子もイエス様が復活されたという

  確信が与えられた瞬間に、イエス様の姿が消えてなくなった。ギデオンも今やっと、目が覚めたのである。

 

「ああ、神、主よ。私は面と向かって、主の使いを見てしまいました。」(6:22)しかし、「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」(6-23)という言葉をいただいた。つまり、神を忘れ、苦しく追われるような生活に明け暮れていた自分。それでも主は、ギデオンを滅ぼしてしまうことなく、その罪を赦して、「安心しなさい。」と平安を与えて下さった。そこでギデオンは、かけがえのない食料、小山羊とパンを持って来て主にささげたのである。

 ギデオンは今ここで初めて、神を第一としたのだった。祭壇を築くこと、礼拝をすることを求めたのである。

 それがこのギデオンの祭壇、「アドナイ・シャロム平和の祭壇」(6:24)である。

 今まで神に背を向けて生活に追われていた自分の罪を告白して、悔い改める決心をした“記念の祭壇”であった。

 ・・・すると、たちまち火が岩から燃え上がって、…パンを焼き尽くしてしまった。 6:21

  神は彼の礼拝を喜んで下さり、聖霊の火をもって受け止めて下さり、同時にギデオンにも聖霊の炎を持って神が見える霊的な目を

 与えて下さったのだった。死ぬべきはずの人間が、罪赦されて生かされた。

 皆さんはいかがだろうか?神に献げる肉とパンより、自分が日々食べる肉とパンを最優先してはいないか?

 すべてのものは、神の手から出ているのだということを忘れないで、まず神を第一として祭壇を築くことだ。

 これがギデオンの築いた神との平和の祭壇である。

 

 ともすれば、クリスチャンでさえも神の救いの力、十字架の贖いの力を忘れ去って、自分と生活を第一にしてしまっている背信の時代。

 その只中にあって、神様はわたしたちに「勇者よ、立ち上がれ。主があなたと共におられる。」と呼びかけておられる。

 この主の呼びかけに応えて行きたい。罪の悔い改めをもって、主の祭壇を築いて祈って行く者となりたいと願うものである。 

 

 

 

 

 

      

 

  2017... ―イエスの愛によって何かをなせ! ―  Ⅰコリント3:9~15

 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。  もし、誰かがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。  もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。 もし誰かの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。  Ⅰコリント3:9~15

 クレジット・カードは便利なカードである。手元に現金がなくても、買い物ができる。好きな時に好きなもの、好きなだけ買うことができるのだ。しかしクレジット・カードには一つ問題がある。それは、月に一度必ず清算しなければならないという点である。

 便利なクレジット・カードだが、それは私たちの人生と共通点があるように思う。私たちは自分の人生を、好きなように生きることができる。どんな仕事をするか、誰と結婚するか、どんな場所に行くか、どんな所に住むか?…。たいてい自分で決定することができるのだが、しかし聖書は教えている。神から私たちに与えられたこの命をどう生きたか、どう使ったかがやがて必ず清算される日が来ると。

  「人間には、一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」ヘブル9:27 

 私たちは「人間、一度死ぬこと」というのは、観察と、経験でよく知っているが、「死後にさばきを受けること」ということについてはどうだろうか? 聖書は「人間、死んで終わりなのではない。実はその後が大切だ!死後、人は皆、神の前に出されて審きを受ける!」と教えている。 

  死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じて裁かれた     黙示録20:12

 

 パウロはコリント教会のクリスチャンに、「あなたがたは神の畑、神の建物です」Ⅰコリント3:9と言った。私たちの人生は畑であり、私たちの人生という畑から神様は最後に収穫を得たいと望んでおられることを意味している。つまり、神様は、死後に私たちから豊かな収穫を期待されているということである。  また「あなた方は”神の建物”である」3:9 とも言われている。建物とは建築物であり、建築途中のものは「建物」とは言わない。完成後初めて”建物”となる。パウロは、私たちは死後建物としての評価を得られるかどうかが大切だと言っているのだ。人生というこの建物をあなた方は完成させなければならない、聖書はそう教えている。

 

 .人生の土台をキリストに置く!

 「…どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。」Ⅰコリント3:10

 「その土台とは、イエス・キリストです。」、Ⅰコリント3:10

 コリントの教会の土台は一体誰なのか?それは、この教会を作ったパウロでもなければ、育てたアポロでもない。この教会の土台はイエスご自身であることをもう一度思い起こさせようとしている。 大切なのは、どれだけ大きな家を建てたかではない、どんな土台の上に建てたか、なのだ。

 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。 マタイ72425

 

あなたの人生はどんな土台の上に建てられているだろうか?土台とは、私たちが人生の中で最も信頼しているもの。

 ある人にとってそれは財産、お金。お金があれば沢山のことができる。病気になった時、より高度な治療を受けることもできる。より栄養価の高いものを買って食べることができるかも知れない。だが、実際はどうだろう?医学にも限界がある。 ある人は自分の家族を信頼する。多くの場合、家族は互いに助け合って困難を乗り切ることができるが、そんな家族でもどうにもできないケース、裏切られるケースが沢山あるのだ。私たちは何に信頼すれば良いのだろう?

 ▼ある女性の体験談。28歳の時にクリスチャンであった妹さんに誘われて、小さな家庭集会に行き、それがきっかけでクリスチャンになった。

 「当時、私は、自分の個人的なことや仕事のことで大変苦しくて、たまらない時期でした。手相や生命判断や様々な占いに問題の解決を求めたこともありましたが、一時的に解決したように見えても、すぐに前よりも悪い状況になってしまいました。そんな時、妹に教会に誘われ、聖書の話を聞いているうちに、私の心の空間を埋めて、問題を本質的に解決するには、神を受け入れるしかないと判断したのです。」

  もちろんクリスチャンになってからも、様々な試練を通過した。大病を二回、一回はストレスの為、精神的な病気に苦しめられ、二つ目は大腸ガンだった。二つとも、治療と手術によって治ったが、その時のことを次のように話しておられる。

 「…そんな時、疲れ切って、『神様、私にはもう何もできません…』、そう祈った時、神様は私の心の中に一つのみ言葉を下さいました。それは『…だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』 マタイ6:33    私は当時、家族のために一生懸命に仕事をしていました。しかし私の生活の優先順位は、いつの間にか間違っていたのです。礼拝に出席せずに、仕事に向かう日曜日も多かったのです。それまでは一番大切なものは仕事、その次に家族、そしてその次に信仰がありました。…私は根本的に間違っていました。…その日から、まず神を第一にしようと決めました。私たちの会社は、女性社員が多いことや、当時は有限会社であったことなど、不利な条件にあったにもかかわらず、それからは不思議と業界でも大きな会社へと成長して行きました。それは私に能力があったからではありません。私は本当に小さくて弱い者です。ただ私はその都度その都度、神から示されたことに『はい。主よ、従います』と言って今まで従って来ただけなのです。神は自分を主として恐れ、従順である者を本当に祝福して下さるお方です。」

  人生の土台を、イエス・キリストにした人の幸いがここにある。

 

 .建物の材料をみことばに置く!

  次にパウロは3:12で、キリストを土台とした人は、どんな材料を使って家を建てるべきかについて語っている。金、銀、宝石、木、草、わらといったものは、家を建てる材料である。

 「各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。」3:13   

 「その日」というのは、キリストの「再臨の日」のことで、私たちが主イエスを顔と顔を合わせて見るその日のことである。

 そしてその日は、私たちクリスチャンが「審き」を受ける日でもあるというのである。この審きは天国に行くのか、地獄に行くのかという種類のものではない。クリスチャンはみな天国に行けるのだから。  ではここで言われる審きとは?  

 「…この火がその力で各人の働きの真価を試すからです。」3:13

 「この火」とは、いわゆるゲヘナ(地獄)の火ではなく、本物かどうかを試す、精錬する、純粋なものと不純なものとを分ける「火」なのだ。ある金属から純粋なものを取り出す時には、何度も何度も、高温で熱しますと、不純なものが消えていく。その「火」なのである。

 

私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。  Ⅱコリント5:10

 「さばきの座」というのは、その人が天国にふさわしいのか、地獄にふさわしいのかという裁きではない。そこに集められた人たちは皆クリスチャンなのだから、みんな天国に行くことは決まっていおり、ただその人が与えられた命や人生を、神のためにどのように使ったのかを評価される時だということを彼は言っているのである。

  テレビのニュースなどで、美人コンテストを見たことがあるかと思う。美人コンテストに参加している人はすでにみな美人なのだ。つまり美人コンテストというのは、美人かどうかを決めるコンテストではない。とにかくあれに出られた女性たちは、すでに皆甲乙つけがたい美人ばかりなのだ。あとはその人が持っている、特技であるとか、とにかく”内面性”をアピールするコンテストである訳で、、、一緒にしては申し訳ないが、「審きの座」もこれに似ている。 3:13→のこの日の”審きの場所”に集まっているのは、実は、もう全てが「義人」ばかりで、みんな救われた人たちなのだ。つまり、その場所に集まったクリスチャンたちが、与えられた永遠の命を、この地上でどういうふうに神と人々のために使ったかを評価される所がこの場所なのである。

 

 3:12→「金、銀、宝石」は永遠に残るもの…。他方「木、草、わら」は、瞬時に火で燃えてしまうものだ。それは私たちが何かをする時の動機、つまり神を喜ばせるために成されたものなのか?ただ自分の喜びのためになされたものなのか? 動機が問われている。

 ▼あるアメリカ人の宣教師は、アフリカで長い間働いたが、彼がいつも自分自身に言い聞かせていた言葉があった。それは、「ただ一つのいのち、それはすぐに過ぎ去る。ただキリストのためになした事柄だけが、いつまでも残る!」

 …クリスチャンとして神を信じてから天に帰って行くまで、この地上で何一つ神に喜ばれることをしたことがない、という人がいたとすれば、その人は、天国に行くだろうか?天国に入れる。だからあなたが、今日から死ぬまで神のために何もしなかったとしても、キリストを信じていれば間違いなく天国に迎えられる。

 でも、こうも15節には書かれている。

 「もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、(かろうじて)火の中をくぐるようにして助かります。」

 どんな形でも天国に入ることが出来るのなら、その人は人生の成功者と言えるのだろう。でも、私たちはそんな火事場で焼け出されたような姿で天国に入ることを望むであろうか?火にも焼け残る立派な建物を、主の前に持って行きたいと思われないだろうか?

   ただ、イエスを信じるだけで、私たちは罪赦される。永遠のいのちを持って、死後、天国に行くことができる。このことは、「神の一方的な恵み」なのだ。私たちに何の行ないも、要求されていない。 ただ、パウロがここでチャレンジを促しているのは、「ただ自分だけが救われて良かった。」「ああ自分の家族も救われた。もうこれでいい。後は天国に行くのを待とう。」「罪も赦されたし、平安だし、問題もそんなにないし、後は天国を楽しみに待っていよう」と言って座り込んでいるクリスチャンに対してなのだ。

 

 .人生の報いは死後にある!

  では、私たちはこの神の火に耐えうるような建物を、具体的にどのようにして建てることができるだろうか?

  こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。Ⅰコリント13:13  

 キリストを信じる信仰のゆえの行動、キリストにある希望に支えられた行為、キリストの愛を映し出すようにして、あなたが誰かを愛したこと、それが、3:12→で金、銀、宝石に例えられる材料なのだ。焼き尽くされることはなく永遠に刻まれる、残るものである。パウロは、その中で最もすぐれているものは「愛である」と言った。この愛は「アガペー」という言葉が使われており、「一方的な、無条件の、見返りを期待しない愛によって、あなたが誰かを愛した時に、それは永遠に残る」と言われたのである。

  ▼かつて一つの事件があった。1954年9月26日、台風15号が日本列島を縦断した。青森と函館を結ぶ”青函連絡船”の「洞爺丸」が、この台風の直撃で沈没した時、乗船していた1,155人もの命が失われるという未曽有の惨事となったのだが、この中には2人のアメリカ人宣教師がいた。

  船が傾いて沈みそうになった時、乗客たちは身近にあった救命胴衣を身につけて、海に飛び込み始めた。この宣教師たちも、側にあった救命胴衣を身につけて飛び込もうとしたのだが、その時、自分たちの前に若いカップルがパニックに陥っているのを見た。この二人を見た宣教師たちは自分の身につけていた救命道具をすぐに脱いで、二人のカップルに差し出した。そして、救命胴衣を渡しながら彼らはこう言った。「どうぞ、これをお使い下さい。これからの日本は、あなた方が作り上げていくべきです。そして、もし、あなた方が助かったら是非教会に行って下さい。」と…。どこの誰だか知りもしない、初めて会った人たちにだ。その行為によって、自分たちの命を失うであろうことを知りながら。。。なぜ、彼らはそんなことをしたのだろう?

 宣教師にも家族がいた。まだ小さな子供たちもいた。彼らはアメリカの名門エール大学やカナダのトロント大学を出た優秀な人たちで、将来を嘱望されていた若手のホープたちだった。彼らは、はるばるアメリカからやって来て、これから日本をはじめアジア各地で神様のために働こうとしていた人たちだった。まだ死ぬには余りにも早過ぎる。では、なぜ?

 彼らは、カルバリ山の十字架上で自分の為に示して下さった”神の愛”を十分に知っていた。彼らは思ったのではないだろうか?「…もしも、イエスがこの場所におられたとしたら、きっとイエスはこのようにされたに違いない…」。イエスがなさろうとしたことを、自分たちもするだけだ。それだけだった。何の見返りもない。「ここで、このことをすれば、私たちの名前は後世に残るだろう!」 そんな計算は働かなかった。なぜなら、若者たちだって死ぬ可能性があったから…。救命道具を着けたこの若者たちが死んでしまえば、この美談など誰も知らないで終わってしまっていたはずだから…。また、もし助かったとしても、彼らがこの時の物語を誰かに話す可能性が、必ずしもある訳ではなかった。助かって約束通りに教会に行ってくれるかどうかだって分からない。でもこの宣教師たちは、イエスだったら、どうされるか。イエスがなさるだろうと思われたことをしただけなのだった。

  今、この二人の宣教師はどこにいるのだろう?天国にいる。

 もちろん、全ての人がこのような事件に遭遇する訳ではない。私たちの殆どは、このような劇的な場面に会うことなく、天国に帰って行く。だが、たとえ平凡な出来事の中に置かれているとしても、私たちは、この”主の愛”で人々を愛することができるはずだ。

  ▼またある宣教師の話。その頃の彼には、まだ小さな四人の男の子がいた。二~三日の伝道出張に出かけて週末に帰って来ると、その四人の男の子たちが玄関に元気に迎えに走って来てくれたそうだ。奥から次々に走って来て、「お父さん、お帰り」。一番上の長男が、お父さんのカバンを持って奥に走り去る。次に二番目の息子は、お父さんの上着を脱いで持って行く。三番目の息子は、お父さんの帽子をつかんで持って行く。すると四番目の息子は何もすることがない。いつもお兄ちゃんに先を越されてしまう。でもお父さんが帰って来たことを、何とか歓迎したいと考えていた彼は台所からジュースを入れて持って来た。「お父さん、お帰り!」 自分で考えたのだから得意げだった。でもさっきまで泥遊びをしていて、手が泥だらけで、しかも「どうぞ、お父さん!」と言った時、その親指がコップの中に入っていて、見るからに汚かった。しかし父親はそのジュースを心から喜んで受けとって一気に飲み干した。なぜ? それはこのジュースに末息子の愛が入っていたから。だから美味しく飲めたのである。

  同じではないだろうか? 私たちの神に対する奉仕は、泥だらけで不完全なものではないだろうか?はた目にはそんなに麗しい奉仕でないかも知れない。でも神様は、そこにたとえ一滴でも愛が入っているならば、永遠に残るわざとして、神は覚えて下さるのだ。「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛です。」それが、「金であり、銀であり、宝石」である。

 

たとえ小さくても主にある者として愛を込めて何かをしたいと願って歩むなら、そんな私たちの行為は小さくはあっても、いつまでも主の前に覚えられている。私たちも小さくはあっても良き愛のわざという家を建設して、この世を去って天国に行きたいものでありたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

2017年1月1日 元旦・新年礼拝  さあ、湖の向こう岸に渡ろう!ルカ8:22~25

人は変わる。人の言葉も変わる。しかし神は変わらない。神のことばも変わらない。だから神への信仰に固く立って今年も歩き始めよう。

.キリストを見上げた時、すでにもう嵐は静められていた!

嵐を静められた時の主イエスのみことばと御業とが記されている。並行記事はマルコ伝4:35~41

その頃のある日のこと、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り、『さあ、湖の向こう岸に渡ろう』と言われた。それで弟子たちは舟を出した。舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹き下ろしてきたので、弟子たちは水をかぶって危険になった。…ルカ8:22~23

  この湖はガリラヤ湖である(8:26)。主と弟子たちが一緒にいた岸辺から、向かうべき場所である対岸の地ゲラサ地方までは、10キロほどの距離だったと考えられる。ガリラヤ湖は長い間、漁師として生計をたててきたペテロやヨハネ、アンデレにとって、ついこの前まで自分たちの仕事場であった湖である。だから彼らにとってはこの程度の船旅、あっという間の短時間で終わるはずであった。          ところが…である。 対岸が間近に迫った頃、…突如、激しい突風が吹いて来たのである。にわかに、波が激しく立ち騒ぎ、舟が沈みそうになったのだ。 ガリラヤ湖という湖は周囲が山に囲まれていて、しかも、海抜下約200メートルに位置する世界でも有数の湖面が低い湖なのである。ちょうど“スリ鉢底”のような地形をしていて、“地表の温度”と“水面”温度との間に著しい温度差が生じる時、季節によっては異なるが、夕暮れに山からの“吹き降ろしの風”が突風となって、湖面を駆け抜けることがしばしばあるのである。今回のこの湖の気象状況については熟知していた彼らをしても別格であったようなのだ。

▼NHKテレビの“釣り番組”に「釣り人万歳」という番組がある。「釣り紀行」といった感じの番組であって、釣った魚を料理して、おいしく食べたり、その港町の風情や風景を楽しんだりといった、割と気合の入った番組なのだ。“釣り兄貴”と呼ばれる“釣り師のプロ”と“芸能人”などの“素人”が一緒に船に乗ったりして釣りを楽しむのだが、その掛け合いなどが何とも楽しい。  そんな中で私が印象的に感じることが一つある。…それは、船長や船頭である人は、例えば海上に雲が湧き出て来て、波がざわつき、うねりが出始めると、「今日はもうこれで終わりじゃ!」と言ってすぐに仕事を切り上げてしまうということだ。素人の釣り人は「もう少しぐらいさせてくれ!」と願うのだが、「絶対駄目じゃ!」と言いながら、あっという間に港に引き返してしまうのである。安全最優先!それがプロの流儀なのだ。釣れていようが、なかろうが関係ない。人命最優先…それがプロである彼らの“仕事の流儀”なのである。つまりプロは“危険への認知力”が極めて高いのだ。彼らは、自然の恐ろしさ、凄まじさ、冷酷さをよく知り尽くしているのである。更に彼らは、その危険を回避する道もしっかりとわきまえている。       そして…この時のペテロやヨハネ、アンデレたちもそうであったはずなのだ。漁のプロフェッショナルであった彼らが、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです!」ルカ8:24  と絶叫しているぐらいなのだから、この嵐は彼らの想像を超える程に凄まじいものであったに違いない。   「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか?」マルコ4:38 

  だが、この時の、主イエスの御姿に目を転じてみよう。主イエスはこのような最中、「ぐっすり眠っておられた」8:23  というのだ。舟は縦に横に上に下へと激しく翻弄され、男達は船から振り落とされないように互いに掛け声を掛け合いつつ、舟に侵入する水をかき出し続けていた。「舟は波をかぶって水でいっぱいになった」マルコ4:37)。 そんな時、主イエスは熟睡しておられたのである!  “まことの平安”というのはこういうものなのだろう。そういえばあのクリスマスの夜も同じだった。世相は非常に騒がしく、暗く、危険な時代であったあの時、幼子イエスは、静かに馬小屋の飼い葉おけにスヤスヤと眠られていた…。イエス・キリストにある平安とはこのような、“揺り動く中での不動の平安”、嵐さえも打ち破れない“静かな平安”なのだろうと思わされる。

   弟子たちに叩かれるようにして起こされた主イエスは起き上がると、風と波とを激しく叱りつけて、静められたのである。「黙れ、沈まれ!」…すると風はやみ、大なぎになった マルコ4:39  それから、おもむろに主は弟子達に言われた。「あなたがたの信仰はどこにあるのです?」ルカ8:25  「どうしてそんなに怖がるのです。信仰がないのはどうしたことです?」マルコ4:40  このお言葉は、信仰があればこのような事態であっても恐れ、あわて、うろたえることはないということなのだろう。そして、キリストは“信仰の大安心”の姿を、ご自分の眠っている姿を通して弟子たちにお示しになっていたのだろう

   だが現実的に、そんなことが平然とできるものだろうか?むろん私にそんな自信はない。もし、自分がこのような状況に陥れば、同じくこの弟子たちのように大いにうろたえ、大いに恐れ惑い、「イエス様、主よ、神様、何とかして下さいよ!」そう叫ぶに決まっている。それじゃあダメなのか?…そうではない。断じてそうではないのだ!主イエスは、そう祈り願うことをダメだ!と仰ってはおられないのだ。ここで主イエスは、「あなた方の(私への信仰(深い確信・信頼)はどこに(あるのか)吹っ飛んでしまったのか?」8:25  と、ただそれだけ言われたことに注意しなければならない。

主はここで、「私にすがるな!」と言われてはいない。そうではなく「あなた方は、私がここに居る。あなたがたと共にいるという事実(わたしがインマヌエルの主であること)を忘れていまいか?」そう言われたのだ。なぜ、私から目を離して、嵐や、波や、舟に入ってくる水、傾きかけた舟ばかりを見ているのだ?私にのみ目を向けよ。私の言葉を聞くのだ。私はインマヌエルの神なのだ。私の他に神はないのだから…。

だが今、ヤコブよ、あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな、わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎる時も、わたしはあなたと共におり、川(大河)を渡る時も、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。イザヤ43:1~3

  あなたはやむなく火の中を歩まねばならない時もあるだろう。あつ過ぎて火傷を負ってしまいそうな時もあるだろう。だが、炎が決してあなたに燃えつかないよう私はあなたを確実に守る。なにゆえ? 私があなたの神であるからだ。あなたは私と共にいなければならない存在だからである。私があなたと共にいるからあなたは安全なのである。私、インマヌエルの主である私に目を注げ、私のことばに心を留めよ。主はそう言われているのだ!   主イエスは言われた。「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう!」8:22  だから何があろうとも大丈夫なのだ。そのことを知る為、彼らは主によってわざわざこの訓練のシーンに導かれたのだったのだ。そしてこの訓練の場において、彼らは「インマヌエルの主」の恵みを知ることができたのだった。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなた方を子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。」ヘブル12:7

もう一つ、大事な点、キリストを見上げた時には、嵐はすでに静まっていた!という事実である!

  主イエスが風と荒波とを静められたことと、「あなた方の信仰はどこにあるのですか?」と言われたことの、順序が大切だ。弟子達に主は、「あなた方の信仰はどこにあるのです。」と言われた。だが、このおことばは、主イエスが神の子としての力をもって、風と波とを静められた後に弟子たちにかけられたことばなのだ。主は、ご自分に助けを求めて来た弟子達の求めを退けて「あなたの信仰はどこにあるのか?」と言われたのではない。そうではない。主は、弟子達の助けを求める叫びを聞かれたのだ。だから起きられた。イエスは、彼らのことばをしっかりと受け止めて下さったのだ。そして実際に嵐を静めて下さった。その後で、「あなたの信仰はどこにあるのか?」と言われたのである。つまり、主イエスの「あなたの信仰はどこにあるのですか。」という言葉は、既に弟子達を安全な所に移して下さった上でのことばだったのだ。       どうだろうか?あなたもあなたの信仰はどこにあるのですか?」との神様の言葉を聞くことがあると思わないか?本当に、こんな情けない信仰でどうするのか、そう思うことだってある。だが、私たちはその時むしろ大いに喜ぶべきはないのか?何故なら、その言葉を聞いた時は、すでに神様は私たちの為、風も波も静められた後であるからだ。

そして、そのような経験を幾度も重ねていく中で、私たちは「主が我らと共におられる」、インマヌエルという事実がどんなに力ある平和をもたらすものであるかを、知らされていくのである。何度も何度も「あなたの信仰はどこにあるのですか?」と言われながら、まことの信仰の力、信仰の平安へと導かれて行く…。それが私共の歩みなのだろう。主イエスと共にいても、嵐に遭うことは多々ある。だが、主イエスが共におられるから大丈夫!このインマヌエル信仰を持ち続けたい。

.キリストが「さあ、行こう」と招かれた船路なのだからこの船旅は絶対大丈夫だ!

あなた方は私の証人、―主の御告げ―わたしが選んだ私のしもべである。これは、あなた方が知って、私を信じ、わたしがその者であることを悟る為だ! イザヤ43:10

 ここで、もし弟子達が主イエスを起こさず、主イエスが眠り続けていたとしたら、この舟はどうなったか?嵐は止まず、水は舟の中に入り続け、弟子達は必死に水をかき出し、舟をこぎ続けた。しかし、弟子達の努力のかいもなく、この船は沈み、弟子達は全員、おぼれ死んだ。そういうことになっただろうか?決して、そうはならなかったはずだ。何故なら、この船旅は復活の神イエスキリストが招待したものであったからだ。この舟には、主イエスが乗っていたから。主イエスが乗り込んだ舟。それは沈まぬ舟だ。この舟は、主イエスが共におられる以上、決して沈まない。主イエスが「向こう岸へ渡ろう」と言われた以上、神が最終責任を取って下さる。試練はあるが、やがては必ず向こう岸へ着くことになっている。そうなのだ。

 そしてこの舟こそは、教会を指している、そう教会の長い歴史の中で考えられてきた。教会のシンボルは今や十字架であるが、古くは舟も又、長きに渡って教会のシンボルとして使われてきた。主イエスが乗り込まれた沈まぬ舟だ。我々は主の日の礼拝に集う度に、この沈まぬ舟に乗り込み向こう岸に向かって旅をしているということなのだ。この教会が「沈まぬ舟」である。この「沈まぬ舟」に乗っている私たちも又、あの弟子たちと同じように、決して沈むことも、溺れることもない。インマヌエルの船は、私たちの人生は決して沈まないということを意味している。 勿論、イエス様がこの舟に乗り込んでいるから大丈夫だと言って、嵐が来ても何もしないで、お祈りさえしていれば良いというのではない。私たちは「向こう岸へ渡ろう。」という、主イエスの命令を受けているのでありますから、嵐の中も必死に舟をこぐのです。水が入ってくれば、必死で水をかき出すのです。向こう岸に向かって舟を進ませていかねばならないのであります。主イエスが共にこの船には乗り込んでくださっているのだから、決して沈まないことを信じて、大安心の中で、為すべきことを為していく。船を向こう岸へと漕いでいく。それが私どもの為すべきことなのです。

.キリストという船長の舟に乗って生活していることを覚えよう!

 「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」という主イエスのお言葉は、まことに象徴的である。向こう岸とは、まさに神の国を指しているのであろう。私共は、向こう岸を目指して、この一年、主イエスが乗り込んで下さったこの舟に乗って、精一杯舟をこいでいきたい。嵐が来ても水が入ってきても、この舟は沈まないのだ。私共はこの一年の間に、病気になるかもしれないし、ケガをするかもしれない。思いもかけなかったような困った出来事が起こるかもしれない。しかし、大丈夫。主イエスが共におられるのだから。この舟も、この舟に乗っている私共も、決して沈まないのである。インマヌエルがもたらす、大安心の中で、この新しい一年も歩んで行きたいと心から願う。

 

 

 

 

 

 

 2016年11月20日  めぐみ礼拝   あなたの探し人がここに!

 

まことに神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を探し出し、これの世話をする。 エゼキエル34:11

わたしは失われたものを捜し、迷い出た者を連れ戻し、傷ついた者を包み、病気の者を力づける。わたしは肥えた者と強い者を滅ぼす。わたしは正しい審きをもって彼らを養う。 エゼキエル34:16

私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。Ⅱ・テモテ2:8――

 

あるクリスチャン精神科医のお話し   「老いてもなお元気な人は、“三つの神経”が発達している」と言う。…“三つの神経”

①“運動神経”。 スポーツが得意で、この神経がしっかり鍛えられている方は、歳を取っても元気であり人生に有益だ。

“反射神経”。“反射神経”が良い人は、たとえつまづいてコケたとしても、上手なこけ方ができ、大ケガには至りにくいというわけである。

さて、この先生によれば、一番目に挙げた“運動神経”に優れ、“反射神経”が発達していたとしても、それで人生万歳なのではない、と言われる。

本当に人生を幸せに、上手に生きようと思うなら、③の神経、それは、神様への“感謝神経”これが一番大切だ! 

人間は感謝しているとき、心まで喜ぶことができる。人の心と体はつながっていて心が喜ぶ時、体も喜ぶのだ。

いつも喜んでいなさい。全てのことに感謝しなさい!  I テサロニケ5:16~18 これは逆にも読めるわけで「全てのことに感謝して生きる人は、いつでも喜んで生活ができる!

天地をお造りになった真の神様は、私たちに素晴らしい喜びのニュース、グッドニュースを下った。この世界にはバッドニュースが満ち満ちているが、霊的な耳を澄ませば、グッドニュースが聞こえてくるのです。聖書はこれを「福音」と呼んでいる。「イエス・キリストの福音」である。私たちが失望や打ち倒されないように、支えるために神様が用意された。

 

私の福音に言うとおり~ダビデの子孫として生まれ、~死者の中から、~よみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」 Ⅱ・テモテ2:8

 

~第一に、ダビデの子孫として生まれたキリストをいつも思う!

ダビデはキリストより1,000年前にユダヤの国を治めた王様であり、神様はこのダビデ王に沢山の約束を与えられた。その最大級の約束はやがてダビデの子孫から、救い主キリストが生まれるという約束であった。その約束通り、ダビデの家系の中から、しかも処女マリヤからお生まれになったのが、イエス・キリストである。これを「受肉」と言う。それだけではなく旧約聖書の中には、実に300箇所以上もキリストに関する予告が書かれている。これを「預言」と言う。この300以上の預言全部が、イエスの生涯において実現したのだ。

▼聖書は言う。私たち人間が、ダビデの子孫としてお生まれ下さったイエス・キリストを思うことで、神の約束の確実さを確信できるようになる。そして「感謝の心が湧いて来る」と教えている。そしてそうすることで私たちは「強くされる」と教えている。

 

~第二に、十字架の上で死者となったキリストを思いなさい!

小学生ぐらいの子供が、動物園のカバの檻の前で熱心にきれいな小鳥の絵を書いている。「カバを見ながら小鳥を描くなんて、なぜなんだ?」そう思って目を凝らして見ると、小鳥がカバのお尻の上にとまっているではないか?小鳥の美しさに心を捉えられた少年の目には、カバのでかいお尻などまるで眼中にはなかった。…人は目の前にどんなことが起ころうと、どこに焦点を合わせるかで、見えるものと見えなくなるものが決まる。

人生、目の付け所が大切なのだ!

地震や、火山の爆発や、大雨や降雪、大陸移動…などによって生じる気候変動や大陸移動は、時に災害と呼ばれ「ありがたくない」「迷惑しごく」と思われがちだが、一方、地球学者や天文学者たちから見れば、生命体が存在するための主要必要条件であるかも知れないと分かってきた。

私たち一般人と専門的学者の視点の違いで全く異なる風景が見える訳だ。

十字架にかけられたイエス・キリストに焦点を絞り込んで、キリストを想いなさい。」と。そうする時に私たちは、様々な思い煩いから解放されることができるのだと。

キリストは、私たちのどうにもならない罪と、私たちにひどいことをしてきた人のどうにもならない悪の両方を背負って、身代わりにそれらの罪の罰を受けることで、二度と思い出す必要のない永遠の彼方へ完全に葬り去って下さった。もうそこに帰る必要はない。過ぎ去ったこと、ケリのついたこととして、もうとどめを刺して下さったから。罪責感や不全感や、赦さない思いに縛られそうになったとき、この十字架のイエス・キリストに私たちの心の焦点を合わせると不思議に力が湧いてくる。

 

~第三に、死者の中からよみがえったキリストを思うことで、復活の力を思い出すことが出来る(人生の終着地が待っている)!

 ▼第三に、キリストは死んで三日目に復活することで、死そのものを滅ぼしてくださったことのゆえに、ほめたたえられるべきなのだ。

飛行機はただ飛ぶということに目的があるのではない。飛行の目的は、目的地に無事に到着することにある。人生も同じで、次の目的地に近づいて来るにつれて、いろんなことができなくなる。老いて、目が見えなくなったり、耳が遠くなったり、記憶が失せていったり、体が効かなくなったり…と。でも、それらの制限は、聖書によれば死に対する備えをさせるためのものなのだ。

あなたには、ご自分の魂の目的地がはっきりと見えているか?キリストは、天国という究極の目的地に行くための準備を、あなたに代わって成し遂げて下さったお方なのである。そして、もし今から行く場所が天国であるなら、死は何も恐れる必要がない。キリストは、この生ける希望をあなたに提供するために来られたのだ。

あなたはあなたの神に会う備えをせよ。 アモス4:12

ダビデ:「主よ。朝明けに私の声を聞いて下さい。朝明けに、私はあなたの為に備えをし、見張りを致します 詩篇5:3

私の父の家には、住まいが沢山あります。もしなかったら、あなた方に言っておいたでしょう。あなた方の為に、私は場所を備えに行くのです。  ヨハネ14:2

 

 

 

 

 

 

 

 

2016年11月13日 

「彼らの力の源泉は!」   ダニエル1:3~17

 

神を信じるクリスチャンの力に満ちた生き方はどこから来るのだろうか?クリスチャンの力の源泉を今朝、ダニエル書を通して教えられたい。

 

 

 

.幼少期のダニエルを育んだ人々がいた!

 

ダニエルは、ユダ王国でヨシヤの治世時に生まれた人だ。世の中は悪い方へと激動し、彼と三人の友らは、わずか15年間程度しかユダでは過ごせなかった。だが彼らの堅固な信仰は、ユダでの幼少年時代にしっかりと培われていたのだった。

 

彼の育った時代が、ユダヤ屈指の善王と知られたヨシヤ王であったことも幸いした。ヨシヤは、BC7世紀の初めに堕落し切ってしまっていたエルサレムの宗教改革の為に立ち上がり、またちょうどその頃、エレミヤが預言者としての活動を始めていた。このヨシヤやエレミヤ、そして恐らくは貴族階級にあったダニエルの父親らによる宗教改革の為の活動が、少年期を過ごしていたダニエルに、大きな霊的、人格的な影響を与えていたと思われる。

 

彼らからダニエルは、「人生における人と神との垂直的関係」「神への従順性」の大切さについてよく学んだに違いない。

やがて彼はいかなる逆境の中でも、「神に愛されている人ダニエル10:11 と呼ばれるようになる。 

 

 

 

「三つ子の魂100まで」ということばがある。幼いダニエルの魂に、不屈の、そして崇高で高潔な霊的スピリットを吹き込んでくれた親やヨシヤやエレミヤの偉大さがあることを忘れてはならない。ひるがえって、混迷の現代を生きる私たちも子供教育、分けても「霊的教育」の大切さを覚えるべきである。


 

ヨシヤ王は宗教改革の目的を果たせないまま、メギドの戦いにてエジプト王パロ・ネコの手によって殺された。 これによって王位を手に入れたエホヤキムは最悪の王となり、この国は滅びに至る。バビロン王ネブカデネザルがエルサレムを包囲。BC・605年…1回目のバビロン捕囚の始まりである。ダニエルらはこの時拉致されバビロンへと連れて行かれたのだ。

 

約20年後の586年、エルサレムは破壊された。ユダヤ人たちの夢は潰え去り、希望はなくなったかに見えた。…だが消えたのは目に見える都だけであり、「目に見えないもの」は残っていた。捕囚の民とされたダニエルらに「夢と希望」は引き継がれていたのだった。

 

 

 

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただ一人である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私が今日、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子供たちによく教え込みなさい。あなたが家に座っている時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これを唱えなさい。これを印としてとしてあなたの手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。」 申命記6:4~8

 

 

 

“創造主である神”への信仰は、環境によって左右されるような程度のものであってはならない。彼らには「知識とあらゆる文学を悟る力と知恵」、「全ての幻と夢とを解く力」が与えられていた。 ダニエル1:17  これらは生まれつき備わっていたのではない。彼のそういう人格を作ったのは、神に用いられた彼の離れ離れとなった家族であり、預言者エレミヤや、ヨシヤであったのだ。そんな風に培われたダニエルの信仰はバビロンと言う敵地という厳しい試みの中でいかんなく発揮されたのだ。

 

 

.彼は祈りの向こうにキリストを仰いでいた!

 

 ダニエルは祈りの人だった。いつも聖なる真の神を覚えて、エルサレムを思い礼拝を捧げた。どこに行こうが住もうが、力の源は神であると固く信じていたからである。それは、バビロンの王以外を礼拝したものは死刑になると言う御触れが出た時も少しも変わりはしなかった。彼は決められたとおりに、二階に祈りの部屋に上がり、その部屋のエルサレムに向かって開いている窓を開けて、ひざまずいて日に三度、神様に祈りと賛美を捧げ続けた。 彼はいつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。ダニエル6:10

9:3以降に見られる、ダニエルの祈りを見るといい。 9章の定めの70週の箇所には、ダニエルの嘆願の祈りが述べられている。

私たちの神よ。今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、主ご自身のために、御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせて下さい。

私の神よ。耳を傾けて下さい。目を開いて私たちの荒れすさんださまと、あなたの御名がつけられている町をご覧ください。私たちが御前に伏して願いをささげるのは、私たちの正しい行いによるのではなく、あなたの大いなるあわれみによるのです。・・・ダニエル9:17~23   

 そして10:1以降で彼はキリストに出会っている。それが彼を奮い立たせていたのである。

「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけて下さいましたから。」ダニエル10:19

 

 

 

. 正しい終末観にダニエルは支えられていた!

 

ダニエル書は、終末期を強く意識させられる預言書である。彼は、終末期までの世界の歴史を前もって示されていた人であった。私たちは本書を読むことで、全ては神の主権外にあるものではないことを知らされるのだ。神は「始めであり、終りである」お方である。そして終りは終りで終わらないのだ。この世の終わりは万物の初めであるからだ。これ以上の希望があるだろうか?そしてこの希望こそが、患難の中を歩む神の民を慰め、人生にパワーを与えてくれるのだ。

 

 ダニエルは屈しなかった。禁令を破り、名前を変えられようとも、異国の文化をいくら押し付けられても、彼が信仰者の誇りを失うことはなく、いかなる時にも主への礼拝を続けた。なぜなのか?一つの理由として彼が終末をよく知っていたことがあげられると思う。「、未来を、そして終りを知る者は強い!神が自分の未来をご存知であることを知る者は、人生本当に強いのだ。

 

なぜなら、神は私たちの心より大きく、そして何もかもご存知だからです。Ⅰヨハネ3:20

 

ダニエルのように、将来を信じ、天国を知って、神を畏れつつ御前に静まり、御言葉を聞き、祈る生活は大切だ。この信仰の生活が彼を支えた。だから、彼ら四名はこの異教の地で生き残ったのであり、どこへ行っても神の民として守られ、証しができたのである。

 

 

 

秋のグレース会修養旅行は「天草」だった。二日目、私たちは大江天主堂という山の上に立つ教会を見学した。白亜できれいな会堂であるが、この会堂はこの村の信者たちがお金を集めて建てたものではなく、ガルニエという神父が一人で建てたものだと書かれてあった。この人は昭和15年、80歳で亡くなるまで一度も母国フランスに帰らず、この教会を守り続けた人であった。この会堂の総工費のうちの大部分を、明治25年にこの地に着任以来、粗衣祖食で貯めたお金を自前で出して建てた会堂であった。

 

帰りに立ち寄ったもう一つの崎津天主堂。16世紀の初めこの崎津にやって来たアルメイダというフランス人宣教師よって始められた。徳川時代、禁教令が出ると徹底的な迫害を受けた。明治期に入り、禁教令が解かれ、オーガスチン・ハルブという宣教師がこの地にやって来ると、彼の周りに隠れキリシタンが続々と集まって来た。説明文の傍に簡素な履歴が記されていた。「1864年、フランス・セズに生まれる。」とある。今の会堂が出来上がるのは1934(昭和2)年。その後、日本は戦争時代に突入する。戦争時代もハルブ神父はここに踏みとどまり、敗戦の年の一月、「当地」で昇天。81歳であった。教会の正面に祭壇があった。私たちの教会で言えば「講壇」である。「正面の祭壇のある場所で、迫害時代に激しい踏み絵が毎年行われていました。」説明書きがあった。迫害を前提とした踏み絵がなされた場所にわざわざ祭壇を据えて教会は建てられていたのである。終末期を知る者だけができる生き方ではないだろうかと私は思った。

 

異教の地でも捕囚の地でも、余すところなく神御自身の力と栄光は発揮される。礼拝する者を主は助け、彼らを守られ、苦労は誰よりも多かったが、やがて彼らは安住の国へと導かれて行ったのである。

 

 

 

. ダニエルの祈りが彼を勝利へと導いた!

 

 祈らなければ何も始まらないし、何も与えられはしない。ダニエルは嘆願の預言者と言われている。黙っていて彼は霊的な賜物をいただいたのではない。神に嘆願したから受けたのである。9章の定めの70週の預言箇所には、ダニエルの嘆願の祈りが述べられている。(9:17~23

 

わたしたちも祈る者でありたい。今まで主はわたしたちの祈りを聞いて下さった。ナルド会の映画集会にも久来会者が四名も集って下さった。感謝である。祈りは聞かれることを覚えたい。ダニエルのように、神様に向かって心の窓を開いて祈ろう。恐れることなく。人の顔ではなく、神のみを畏れて今週も歩む者でありたい。  

わが主よ。この終りはどうなるのでしょう。」彼は言った。「ダニエルよ。行け。このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられているからだ。・・・

「幸いなことよ。忍んで待ち…達する者よ。・・・あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」ダニエル12:8~13

 

 

 

 

 

 

 

2016年11月6日

 「たとえ地上の幕屋がこわれても!」

  

☆メインテキスト☆

 [新改訳] コリント人への手紙第二 

 5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。

 5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

 [新改訳] 伝道者の書

12:1 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに。また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

 

☆メッセージ☆

見ずに信じる者は幸い

神様の御業は、この地上に満ち満ちている

 

パウロは、その宣教の働きを理解されない中、“いつも心強い”と言えていた

Ⅱコリント5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

何度も焼かれ、水に浸けられ、打ち叩かれて切れ味の良い日本刀になるように、

パウロは研ぎ澄まされた霊性をもっていた

 

① 私たちクリスチャンにとって、この世界は仮住まい

 この地上の家は傷んでくる

 私たちの身体も衰えてくる

 幕屋、テントにすぎない

 草は枯れ、花はしぼむ。だが、神の言葉は永遠に立つ。

人間の文明・文化によらない、天にある永遠の家

 Ⅱコリント5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

 

② 私たちの人生は、天の御国につながっている

伝道者の書 12:26は、老後について書かれている

栄華を極めたソロモン王も、老後について、恐れ、闇、不安、があると記している

しかし、伝道者の書 12:1 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに。また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

伝道者の書 12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

  

③ 私たちの人生は、これからだ

Ⅱコリント5:5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。

あなたの復活のために死んでくださったキリスト

死ですらも飲み込むキリストの力

 

 

2016年10月9日

 ポジティブな生き方の勧め!」

 メインテキスト

 詩篇103篇1節~5節

 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。わたしのうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。

 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、

 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、

 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」

 

 ①それは生産的な生き方だから!

 私たちはネガティブな出来事を分析することに長けている。「災いが起きるかも知れない」「大丈夫だろうか?」「安心できない…」。こんなネガティブ思考や言葉が巷には溢れ返っている。特に日本人は最近まで幾度も天変地異に遭遇し、あるいは事故に遭い、辛い目を経験してきた。だから必然的に私たちは、ポジティブに思いを巡らせつつ生活することが困難になってしまっているのだ。

 だが、だからこそ、私たちは、この“心の破滅的傾向”を克服する努力が必要となるのだ。エレナ・ポーターの作品、『少女パレアナ』の中で、孤児となり叔母の家に引き取られた少女パレアナは、人生の様々な問題に直面しながら、牧師であった父親の遺言にあった、「良かった探し」を実践しながら、人生の波を果敢に超えていく。パレアナのひたむきなこの“前向きな思い”は、彼女のみか、かかわる周りの人々の人生を明るく前向きに変えていく。この現象は心理学者たちも注目し、この効果を「パレアナ効果」と呼び、臨床応用されたのである。

 

  毎晩のディボーションの際、「今日一日、良かったと思われることを三つ書き出してみる」ことを提案するのはアメリカ心理学会会長マーティン・セリグマンである。「日記でも大学ノートでも構わない。要は、物理的な記録として『良かったこと』を残しておくことが重要だ。些細な喜びでもいい、感謝でも、ほっとしたことでもいい。どう考えてもその日うまくいったことがない場合、関連現象でも構わない。ただそれだけで終わらず、更に原因を記すことをお奨めする。…」博士はこう提案する。まさに「良かった探し」の推奨である。聖歌642番「のぞみも消えゆくまでに」は、「主の恵み」を数えることを勧めている。この考え方が聖書的であるからだ。「主の良くして下さったことを何一つ忘れるな」(詩篇103:2)とあるように…。私たちはとても忘れっぽい。だから数々の主の恵みを書き出して、さらにその原因・感想を書き記しておくと良い。それはあなたの心を喜ばせ、それを語ることで周囲を明るくする力となるのである。「主の恵み語るは楽し、主はまことの神なれば…」という賛美歌がある。「主の恵み、良かったこと」を書き記す習慣が、私たちの信仰生活には免疫力を与えるのである。

 

②それは自分を成長させてくれる生き方だから!

 ポジティブ(介入)感情は、自分の霊的成長、魂と心、精神の安定を促し、私たちの信仰を後押ししてくれる。ある心理学の研究チームが全米60社で会社に出向き、各々の会社のビジネス・ミーティングで発言された言葉の一つ一つを筆記して調べた。三分の一の会社は業績が上々の会社。三分の一はまあまあの業績、あとの三分の一は業績が悪化していた会社であった。研究チームは、それぞれの会社のミーティングで出された文章を、ポジティブな言葉か、ネガティブな言葉かでコード化して、ポジティブな発言対ネガティブな発言で比率を割り出した。その結果「ポジティブな発言対ネガティブな発言の比率が2.9対1を上回る会社では経営状態が良好で、その比率を下回った会社では悪化している」ことが分かったのである。この比率は「ロサダ比」と呼ばれ、今も様々な会社のチェック機能として運用されている。ロサダ比の注目すべき点は、この比率を、そっくり家庭に持ち込むことができるという点である。家庭においても、「ロサダ比」が小さいほどネガティブ感情が高い家庭であるということになる。あなたの家庭はどうだろうか? 私たちは家庭において、また教会において、この「ロサダ比」を上げる工夫をすべきではないだろうか?

 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえて下さる。あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。主はあなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かせられる。」詩篇3746

 ポジティブ思考は、今や抑うつ患者の特効薬とされている。それは人生の幸福度を高め、満足度を向上させ、より良い学習や創造的な思考を促す助けになることが実証されている。その最も良き場が教会である。聖日ごとに神のことばが語られる礼拝こそ、ポジティブ教育がなされる最先端の場所なのだ。神のことば、聖書から、勇気、赦し、感謝、愛、忍耐、寛容、自制心…といったなどポジティブ効果をあなたにも大いに得て戴きたいものである。

 

③それは自制、根気、勇気を生み出す生き方だから!

 ポジティブな生き方は、私たちの心に自制心、根気、勇気を生み出す。テレビドラマ、爆発的人気を呼んだ「朝が来た」のモデル広岡浅子にも「とと姉ちゃん」のモデルの大橋しずこにも、共通していたものは、人並み外れた好奇心と度胸を武器に、根気ある、愛と勇気に富む利他的人生を送ったことだ。ポジティブに、そして強く、たくましく、明るく生きた彼女たちの心は、時を超えて、私たち現代人にも共感を呼び、大いに元気を与えてくれた。広岡浅子はクリスチャンであった。神のことばに触れる時、人は変えられるのである。

 「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」  詩篇119篇105節

 

  

 

 

 

 

 

2016年10月2日

 「耳を澄ませば聞こえてくる!」

 ☆メインテキスト☆ 

 ローマ人への手紙8:18~25

 

①この世界に耳を澄ませば、被造物のうめきと苦しみとが聞こえてくる!

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。  ローマ8:22

「被造物」とは神様が創られたこの宇宙を含めた自然界を表す。聖書は言う。「宇宙が、そして大自然の全てが、今うめき苦しんでいる」

近年、世界中で様々な自然災害が頻発しています。地震、洪水、大台風、津波、干ばつ、、、、

・・・被造物が虚無に服した。 8:20 」とあるように人類の粗アダムが罪を犯したとき、それは始まったと聖書は言う。

土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 創世記3:17

私たちが謙虚に、自然に宇宙によく耳を澄ませば、被造物のうめきと苦しみが聞こえてくる。

 

②この世界に耳を澄ませば、人間社会の苦しみとうめきが聞こえてくる!

人も、人がつくってきた社会もうめき苦しんでいる。経済格差は拡がるばかり、武力紛争や暴動、テロが世界各地で起こり、多くの人命が失われている。原発事故に放射能汚染問題、、、

この書を記したパウロは期限1世紀(今からおよそ2000年も前)の人であり、現代のこれらの社会問題など知る由もなかった時代の彼が被造物全体のうめき苦しみについて記しているのは驚くべきことだ。 彼は聖書によってこれらのことを知っていたのである。

あなたのみことばは私の足の灯(ともしび)、私の道の光です。  詩編119:105

私たちも人生の羅針盤である聖書に聴き、神のみことばに従って生きるなら、未来を踏み誤ることなく進むことができるのである。

 

この世界に耳を澄ませば、このうめきの向こうに真の希望を知ることができる!

それは、被造物が虚無に服したのが、自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。 8:20

22節には「産み(出産)の苦しみ」とある。出産は喜ばしいニュースだが、出産の前には”陣痛”がある。

出産が近づくにつれ陣痛の間隔は短くなり痛みは増す。子どもが生まれると喜びで満たされ、すべての痛みは忘れ去られる。

”出産の喜び”が”陣痛の激痛”をはるかに上回るからである。被造物全体の苦しみもそれに似ている、とパウロは言う。

今味わっている苦しみは出産を前にした苦しみなのだ。だから、この苦難は私たちにとって20節「望みある苦しみ」なのだ、と。

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。8:19

私たちは来る世で、真の神の子どもとされる日を待ち望みながら今を生きるべきだ。これがクリスチャンの信仰である。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。8:23~24

 

 

 

 

2016年9月25日

 「私よ。よく聞け、神が共におられるから!」

 ☆メインテキスト☆ 

 Iコリント書10:1~13

 

パウロは、私たちに、信仰者としてのレースを時には自分の体を打ちたたいてもしっかり走るように勧めている。信仰者のレースで途中、落伍者が

多く出ていることは歴史上実証済みだからである。パウロは歴史的教訓として「イスラエル人の出エジプト」を例に荒野における失敗を挙げている。

そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。

というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

にもかかわらず、彼らの大部分は神のみこころにかなわず、荒野で滅ぼされました。

これらのことが起こったのは、私たちへの戒めのためです。それは、彼らがむさぼったように私たちが悪をむさぼることのないためです。

Iコリント10:2~6

パウロはコリント教会の人々に注意を喚起している。特に彼らは「偶像礼拝」「姦淫」「主を試みる」「つぶやき」という大罪に陥っていた。

私たちも気をつけなければならない。

 

パウロは注意喚起とともに励ましと慰めのことばを語っている。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられないほどの試練に会わせることは

なさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えて下さいます。 Iコリント10:13

 

①耐えることのできないような試練に会わせることはなさらない!

また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。 マタイ10:30~31

主は私たちの髪の毛の数までも全てをご存知であり、私たちがどの程度の試練に耐えることができるかご存じでオーバーすることはない。

だから私たちは様々な艱難辛苦に遭おうとも必ず耐えることができるのである。

 

②試練とともに脱出の道を備えて下さる!

試練には必ず終わりがくることを覚えるべきである。主がそう言われるのだから試練には必ず解決がある、終わりがあると決めてよい。

 

③神は真実な方ですから!

神はご自分が約束されたことを必ず守る真実なお方である。

耐えられない試練に会わせることはない、脱出の道が用意されている!と主が言われるのだから確かなのだ。

私たちはその真実さに期待して生活しよう。

私たちが試練の時、見放されたように思う時もイエス様は私たちを背負い、ともに歩いてくださっている。

だから人生を決してあきらめてはならない。失望してはならない。 試練の時は自分にこう呼びかけよう。

「私よ、よく聞け。大丈夫、今日も神は私とともにおられる!」

 

 

 

 

2016年9月18日

 「光の子らしく歩む~前向き、肯定的に生きるには!」

 ☆メインテキスト☆ 

あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。

ー光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのですー  エペソ5:8~9

 

①聖霊に満たされて歩む!

私たちはしばしば「おっくう」になり、つぶやいてばかりいる。活気にあふれ、楽しく積極的に、前向きに生きるとこができないのは「私たちが聖霊に満たされていない」からである。

主イエス・キリストは言われた。「あなたがたは、世界の光です。・・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」 マタイ5:14~16

「世の光として周りを輝かせて生きる」これが神によって生み出された私たちクリスチャンの本来の生き方でなければならない。

主は私たちに「聖霊に満たされなさい」と命じられており、私たちは聖霊に満たされて生きる必要がある。

満たされた者はキリストの体となり、互いの痛みを分かち合う「愛の共同体」として教会を形成していくことができる者とされる。聖霊は心から主を礼拝する人々に注がれ、注がれた人々は人生が大きく作り変えられていくのだ。

また聖霊はあなたを助けてくれる神である。困難な状況に置かれるときも大丈夫、助け主である聖霊はあなたに力強く働いて下さり、必ず遅かれ早かれ助けて下さる。それが聖霊の役目だからである。

まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。

彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。

あなたは、獅子とコブラを踏みつけ、若獅子と蛇とを踏みにじろう。 詩編91:11~13

主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。 詩編121:8

 

②聖霊に助けられ、励まされ、守られて人生を歩む!

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。 ローマ8:26

聖霊なる神様は切なる深いうめきをもって、いつも執り成しをして私たちとともにおられる。だから私たちの人生はこの上もなく安心な人生を生きることができる、このことを信じよう。

求めなさい、そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。・・・

あなたがたも、自分の子がパンを下さいというときに、だれが石を与えるでしょう。 また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。

マタイ7:7~10

問題がどうしても解決されないとき、私たちは考えるべきである。「私はいつも自分や他の人の力にばかり頼っていたのでは?」

自助努力や世の中の権威、コネなどの力にはすべて”相対的な限界”がある。 一方、天からくる神の力、聖霊の力はどんなコネも人材も必要なく、直接的にあなたのうちに力を付与して下さる。そしてそれはいつも喜びに変えられるのだ。

 

 

 

2016年9月11日

 「天から目を注いで下さる私たちの神!」

 ☆メインテキスト☆ 

詩篇33篇

 

詩篇33篇は、神の目がすべての人々に注がれていることを教えている!

防犯カメラの設置で最近、街中での犯罪が減少傾向にある。人の行動は誰かに「見られている」と感じるとき、無意識のうちに行動形態を良い方向へ変えようとする。 では私たちに目を注いでいる方が、天地万物をお造りになった神様なら?

私たちの全てをご覧になっておられる神様を意識することで、たとえ困難な状況におかれていても、私たちの周囲への行動形態は良い方向へと向かうのではないだろうか。

主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。

御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる。

主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。

・・・見よ。主の目は主を畏れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。 詩編33:13~18

 

詩篇33篇は、だから私たちは、この神を意識して、神を畏れて歩まなければならないことを教えている!

神がすべてをご覧になっておられることに感謝しつつ、この主にお従いしつつ人生を歩もう。

正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。

立琴をもって主に感謝せよ。十弦の琴をもって、ほめ歌を歌え。

新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。

まことに、主のことばは正しく、そのわざはことごとく真実である。

主は正義と公正を愛される。地は主の恵みに満ちている。 詩編33:1~5

「正しい者たち」は別訳で「主に従う人よ」とも訳される。日々私たちにじっと目を注いで下さる神様に「従った」人生を歩めばよいのである。従わないとき私たちは「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました」詩篇32:3  となるのだから。

 

詩篇33篇は、この正義の神を信じ、希望を抱いて生きる者であれと教えている!

見よ。主の目は主を畏れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。

彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。

私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。

まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。 詩編33:18~21テープカットやシャンパンの瓶を船体にぶつけて粉々にする、開店祝いにくす玉を割る・・・これらは「切られ、砕かれ、割られる」損なわれる、破壊される行為だが、これらのお祝いのセレモニー(儀式)は何か新しいことが始まることを表している。

イエス・キリストの十字架の死、という実態は単なる儀式ではなく、私たち信じる者たちに再生力と生きる力を与えてくれる。

人生を生きるための希望と力があなたにも必要なはず。ぜひ十字架のキリストをともに見上げよう。

多くの問題を背負い込み苦しんでいるなら、その重荷を「私に委ねなさい」と神様は語っておられる。

待ち望め。主を。 詩編27:14

 

 

 

 

     2016年9月4

 「不毛な問いかけ人生からの脱出」

 ☆メインテキスト☆ 

 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。

 弟子たちは彼についてイエスに質問していった。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪をおかしたからですか。この人ですか。

     その両親ですか。」 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」

     ヨハネ913

 ある時、生まれつき盲人のこじきをキリストはご覧になりました。弟子たちがキリストに質問しました。

 「先生。彼がもうもくに生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか?この人ですか?その両親ですか?」92

 人生における不可解な問題を目の当たりにするとき、私たちがついしてしまいがちな質問がいくつかある。

 

    ①誰のせいでこうなったのか?

 「自分が不幸になった裏には必ず犯人がいる。」「私が今こうなっているのは誰かのせいだ。」私たちはしばしば「原因論」で事を判断してしまいがち

     である。

 サウル王は若く元気で勇敢なダビデをねたみ、命を狙い続けた。ダビデの人気が気にくわず、「自分の人気が下がったのはダビデのせいだ」と

     考えたサウル王の「原因論的生き方」に対し、ダビデはサウル王を恨まず「主は生きておられる」・・・つまり神の栄光を現わすために自分はある。

     だから主をほめたたえて私は生きる・・・彼は「目的論的生き方」をしていた。

  この盲人がこんな不幸に生まれついたのは「・・いったい誰が、何が原因なのですか?」の問いかけに

  主イエスキリストは「原因論」ではなく「目的論」でもって答えておられる。原因を探っても時間の浪費となり、私たちの心労は増す。

     神が下さった尊い人生のエネルギーは神の栄光を現わすという目的のために用いられるべきである。

 

 ②いつになったらよい状態になるのか?

 主はある時弟子たちにこう言われた。

 「・・・いつとかどんな時とかいうことは、あなた方は知らなくてもよいのです。父が権威をもってお定めになっています。・・・」使徒17

  いつになったらこの病気は治るのか? この問題、いつ解決するのだろう、、、 「いつになったら」という質問は私たちを悩ますことはあっても、

     幸福に導くことはない。自分ではどうにもできないことばかりだからである。

  自分ができないことは素早く手放し、自分ができることにしっかり集中して前に向かって進んでいこう。

 強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるから

     である。 ヨシュア1:9

 と言われる神を信じ「主体的な生き方」をしよう。

 

              ③なぜこうなったのか?

 「なぜ私の身の上にばかり不幸が、、、」「どうしてこのタイミングでこんなことが、、、」不毛な問いかけはやがて人生を打ちのめしてしまう。

     今、起こっていることの意味や理由はすぐには分からないことが多い。

 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたには分からないが、あとでわかるようになります。」ヨハネ13:7

  目の前の出来事が10年後、20年後、どんな展開に至っているかなど今は思いもつかない。しかし、主がそういわれるのだから確かなことなのだ。

 不条理に対するイエスの答え!

 あらゆる不条理と思えることがあるが、あなたの周囲で起きていることすべては「神のわざが現れるための舞台だ」とイエスキリストは言われる。

 「なぜ?」「どうして?」と問うことをやめ、今のつらい現状の中でキリストに力を現わしていただくために、私がキリストに求められていることは

  何か考え、それをしようとすることが大切である。

  天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい   詩編103:11

  この世の様々な問題を心配して、それに押しつぶされないためには、万物の創造主である愛の神を信頼しさえすればよい。

     心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛の神を信頼し、義の神を信じて歩もう。

 

 

 

 

 

2016年8月28日

「希望に生きる人生」

☆メインテキスト☆ ピリピ3421

 

①「望み」(希望)に生きる人生とは過去に振り回されない人生である!

「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私は(今は)キリストのゆえに損と思うようになりました。・・・

 私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさゆえに、一切のことを(今は)損と思っています。

 私はキリストの為に全てのものを捨てて、それらをちりあくた(糞土)と思っています。

 それは、私にはキリストを得、またキリストの中にある者と認められ、・・・

 キリストを信じる信仰による義、すなわち進行に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。ピリピ37

 私達は「うしろのもの」=「過去の出来事」にとらわれやすく、縛られ、振り回されやすい存在である。

「兄弟たちよ。・・・私は・・・うしろのものを忘れ・・」313

「成人(霊的に充分成長した大人)である者はみな、このような考え方をしましょう。」315

「トラウマ」になってしまうような過去に支配されることなく、前に進もう。

 「ただこの一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、(トラウマに人生を支配されてはなりません。

 あなたの人生は過去にではなくこれからにあるのです)・・・目標を目ざして一心に走っているのです。」31314

 

②「望み」に生きる人生とは今をしっかり生きる人生である!

「それはそれとして、私たちはすでに達しているところ(今)を基準として進むべきです。」316

「・・・確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」IIコリント62

「これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。」詩篇118:24

映画の一節・・・今日という日は、私の残りの人生の”最初の一日”なのです。・・・

パウロのように私たちも過去に振り回されず、またいつまでもくよくよせず、今日を精一杯生きよう。

 

「望み」に生きる人生とは未来(天国)志向で生きる人生である!

彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

ピリピ3:19~21

人生の究極の目的、究極の生き方、究極の使命を知って毎日を生きている人は輝いています。

モーセは「自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」詩篇90:12 と祈った。

だから彼は活力に満ちた人生を生きたのである。

私は、すでに得たのでもなく、完全にされているのでもありません。ただ、捕らえようとして、追及しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえて下さったのです。

兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

ですから、成人である者はみな、このような考え方をしましょう。 ピリピ3:12~15

 

 

 

 

 

2016年8月21日

「わたしにつながっていなさい」

 ☆メインテキスト☆

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。 ヨハネ1512

 

①わたしはまことのぶどうの木

 主イエスはご自分を「ぶどうの木」に喩えて語られている。

 「ぶどうの実」は甘く美味しい果物、特に生水の飲めない中東の砂漠地帯にあってぶどうの実は「豊かさ、癒しの象徴」であったし、その実がなる

「土地」は豊かな良い土地である、と人々は考えていた。(民数記1312

 しかし、くねくね曲がっていて、木材としては使い物にならない、貧弱な見栄えのしないぶどうの木エゼキエル1515)、

 「支え棚」に枝を這わしながら育ち、大木とはならず、害虫や病気に弱いぶどうの木、、、

 ここから痛めつけられ虐げられたあげく、ゴルゴダの丘に殺されたイエスキリストの十字架の影が見えてくる。

 ぶどうの木は、その年伸びた枝にだけ実が成る。おいしい実を成らすためには古い枝の剪定(手入れ)が必要。

 枝である私たちはみことばによって清められ、余計なものを取り除き、さらに御霊の実を結ぶクリスチャンとなれるように、と祈るべきである。

 私達のつながるべき真の幹はこの世の幹(富や財産、地位、名誉、健康)ではなく、

真の父なる神様が管理しておられる 真理であり道であり命であるまことの幹である。

  ②わたし(イエス)につながっていなさい

 わたしたちはどのようにしてぶどうの木につながればよいか?

 「わたしがあなた方に話した言葉」によるとある通り、聖書のみことば、福音、説教、お互いの証詞によって

 わたしたちはキリストとつながる「幹に枝が留まる」。 ヨハネ153以下には「とどまる」という言葉が9回もでてくる。

 更に順序は大切。  ⅰ)わたしに留まりなさい。そうすれば ⅱ)わたしもあなた方に留まります。  

 「聞く耳のあるものは聞きなさい。」  主は私たちに無理矢理みことばを食べさせようとはしない。

 まず、私たちが率先してみことばを食べるべきである(聖書を読む、礼拝の説教を聞く)。

そして留まる=途中であきらめないでそれらを続けるということである。

  ③愛の内にとどまる。

ただしゃにむに必死に、何とかして実をつけようと努力する必要はない。また、それはできることではない。自分の力では続かないから。

「、、、私を離れては、あなたがたは何もすることはできないからです。(ヨハネ155

また時に「日曜日くらい休みたい、教会生活煩わしい、奉仕、献金が大変だ、、、

 というようにイエス様のみことばから離れようとする誘惑「わたしから離れる」はたくさんある。

 また離れた方がなんでもできる気がする時があるが、そんなことはない。

 主のみことばにひたすら留まり続けること、それが豊かな実をつけるための絶対条件である。  

 「一つのことを主に願い、それだけを求めよう。命ある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝をむかえることを。」詩編27:4(新共同訳)

 

 

 

 

2016年8月14日

「苦難の日に気落ちするとき」

苦難の意味とそれを乗り越える力について考えたい。
神を信じるクリスチャンにも人生の苦難は普通に襲う。
 
☆メインテキスト☆
[新改訳]  箴言
24:10 もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、あなたの力は弱い。
 
☆メッセージ☆
①苦難はあなたがあなたの人生を輝いて生きるためにある!
金子みすずの詩にある「みんな違ってみんないい」、人間も同じ。「あなたはあなたであればそれでいい。あなたの音色はあなたしか出し得ないのだ。
「ヨハネよ、(「あの人はどうですか?」などと言わなくて良い。)あなたはわたしに従いなさい。それで十分である。」キリストは弟子にそう言われた。
嫌な言葉、プライドが傷つく言葉、出来事、そんな錆が自分を弱くしている。それを気付かせるために「艱難辛苦」というヤスリで心のアカや錆を落とさなければならない。
27:17 鉄は鉄によってとがれ(研磨され)、人はその友(というヤスリ)によってとがれる(研磨される)。
そういうふうに捉えるなら、試練も苦難もあなたの「宝物」であることがわかるはず。
苦難は主にあって生きる力、輝く力、幸せになる力となる
主キリストは私たちがこれらの苦難に勝利するため十字架にかかられたのである。
 
②苦難はあなたが思慮深い人になる為にある(試練をエネルギーとする)!
試練や悩みがあるたびに私たちキリスト者の器は大きくされていく。
苦難という肥料によって、思慮深さという実りが豊かにされていく。
詩編119:50 これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。
折々にかなった神のみ言葉によって私たちは助けられ、人生は深まりを見せる。
詩編119:71 苦しみにあったことは、わたしにとって幸せでした。私はそれであなたの掟を学びました。
 
③苦難は人間として最も大切なもの(神の愛)をあなたに提供するためにある!
人間として最も大切なものは何だろう? いのち? 財産? 健康? それとも長寿?・・・否、
それは「神の愛」である。私たちは神の私たちへの愛から離れてひとときたりとも生きてはいけない。
だから聖書全体を貫くテーマが「愛」なのだ。
その愛をイエス・キリストは十字架という形で具体的に私たちに示して下さった。
詩人ジョン・ダン ------君は神が君を愛しているほど、神を愛しているか?・・・人がかつて神のように造られたことは、大変なことだった。けれども、神が人のように造られたことは、もっとずっと大変なことだったのだ。-----
IIサムエル23:14~17 ダビデについての記述。
ダビデの願望を知った三人の勇士がペリシテ軍の陣営を突き抜けて、アドラムの要害からベツレヘムまで岩山や砂漠を越え「ベツレヘムの井戸の水」を携えてダビデに持ち帰った。
部下たちの深い愛に感動したダビデはその水を飲もうとはせず、それを注いで礼拝を捧げ主に祈って言った。
IIサムエル23:17 主よ。私がこれを飲むなど、絶対できません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。
苦難の真中にあって、神を礼拝することを選択したダビデ。
苦難と渇きがダビデの主への愛をさらに研いだのである。